あおゆず。




 橘柚垂華実(柚が美しい実を垂れて。)
 乃在深山側(ひっそりと山の奥深くに隠れている。)



 荀景倩は無心とは程遠い散漫な気を、己の傍らに積まれた書簡類から引き離すことにした。
 気分が掻き乱された状態で仕事が捗るほど、超人ではない。

 そもそもの原因である卓上の玉盤に眼を遣る。




 聞君好我甘(噂では貴方は私の甘いのがお好みだとか。)
 窃独自彫飾(人知れずこの身を飾っておりました。)



 玉盤の上には未だ熟しきらぬ柚子が二三実っている枝が、ひとつ載せられている。
 先程、二癖は有る同族の荀公會が持ってきたものだ。

『我が邸にて実り良く、薫り高いものをお持ちしましたよ。』
『……有り難く頂戴しましょう。』
『なんの、貴方は荀一族の家督を継いで居られるのですから。荀家の者が第一に貴方を気に掛けるのは至極当然のこと。』
『私は家長ではない、……何度も言ったはずです。』
『誰もそうは思っていませんよ。君の寵を二代三人に渡り受けている、稀有な慎みの君。』

『古詩では橘柚に己が身を託して、君に見捨てられた自身を憐れむ歌も有るというのに、ね。』

『いい加減にしろ、公會!』
『大きな声を出しなさんな、私は皮肉を言っているのではありませんよ?寧ろ鑑だと思っているほどですよ。自分の望むものの為にもより力の有る高位を。手段だの徳だのは、敗残者の恨み言に過ぎないことを、私は貴方の背中から学んだのですから!』




 委身玉盤中(この身を玉の大皿に盛りましょう。)
 歴年冀見食(そして、いつまでも食されることを願っておりました。)



 清廉な者が常に政と共にあるならば、自分のような佞臣が高位にその身を落ち着けることもなかっただろう。
 そんな自嘲と共に、乱世と濁流の世でなければ、自分とて清流となりたかったのだと、焦がれるような希いがある。

 儒者であれ、才子であれ、身を雪ぐことが如何に不可能であることか。己の一族が身命を賭して証明してきたのは、そのようなことだったのだろうか。

 そんな父祖や兄弟たちを不憫だと涙を流すには、自分は心が老いてしまったと思う。尤も、そのような世迷言に惑わされるほどに、今の自分は少し疲れているのかもしれない。



「ほう、良い香がすると思えば、柚子か。」

 豪奢な玉盤には目も呉れず、案内も請わずに執務室にふらりと現れた司馬子上は、柚子をひとつ、枝からもぎ取った。香りを楽しむように、鼻腔を膨らませ、肺の中に清爽な空気を送り込んでいるようだった。

「近頃は不快な案件も多かったし、すっきりしない天気も続いていたからな――汝でなくとも、気も滅入ろうな。」

 司馬子上は手首を翻すと、荀景倩へもぎ取った柚子を放り投げて寄越した。




 芳菲不相投(ですが、私の芳香は君のお気に召さぬとのこと。)
 青黄忽改色(柚の青さは忽ち黄色く変じてしまうというのに。)



「おや、―――柚子の芳香がお気に召しませんでしたか。」

 荀景倩は、柚子を受け止め、手の内で転がしながら掠れたように囁いた。
 執務室の奥で坐したまま、俯いている荀景倩を、司馬子上は怪訝そうに見返す。室内が暗すぎて、表情が伺えないのがもどかしい。

「なんだ、泣いているのか?」
「………何でもございません。」

 近付こうとした司馬子上を撥ね付けるような返事しか返ってこない。
 そこで、橘柚の古詩をおぼろげながらに思い出し、舌打ちをした。これだから、うっかり学の有る人間は扱いが難しい。
 司馬子上は、室の扉を開け放つと、回廊へと出た。左手には玉盤に載せられていた柚子の一枝がある。墨や竹木、紙の匂いの籠った室内に凍えた外気が吹き込んでくる。

「景倩、こちらに出て来い。」

 戸口から呼び掛けるも、返事一つ返ってこなかった。
 代わりに聞こえたのは、新しい竹簡を広げる乾いた響きだった。
 強情には違いないが、今回は荀景倩の自身への腹立ちからだろう。自らの学をひけらかす行為は厳に戒めている節がある。
 ――どんなに身を慎んだところで、彼の栄達を憎み断罪するものはいるであろうに。

「吾が羽翼も無く舞い上がることが出来ると自惚れるほど、愚かと思うか。」

 ――どんなに控えめに振る舞ったところで、この自分の股肱の臣である事実が消えないように。

 それほど長い時間待つことも無く、荀景倩は赤味の無い白い指先に、黄色い柚子を包み込み、暗がりから姿を現した。
 眦が仄かな紅に染まっており、視線を合わせたくないのか、目は伏せられている。
 他人には見せることの無いこの漂白された荀景倩の表情は、司馬子上だけのものだと自負している。

「雪ですか。」
「柚子の香も、風花の元に在るほうが引き立つであろう。」

 荀景倩は、手にした柚子に血の気の薄い唇を押し当て、漂う甘酸の香を漸く楽しみ、ほんのりと微笑んだ。




 人若欲我知(世間が私を知ろうとした時には。)
 因君為羽翼(君の傍らで、輔弼する者として知られたいのです。)











 甘々をみなとなりに、が、がんばって……。(どのへんが…?)
 この漢詩ですが、実在のものです。『古詩源』という本に掲載されていたもので、「君主に棄てられた臣が自らを傷むもの」だそうです。いや、どこをどう読んでも、恋人に棄てられた傷心の女人の歌にしか読めないんですが。みなとの読み方がおかしいんですかっ!
 もうなんか、すごいよ古代中国人。君臣の間柄がどうしてこんなに甘いんですか…。
 あ、漢字について、旧字は無理やり直している所が有るので、間違っていればご指摘いただけると有り難いです。
 それにしても、半分隠してるこのコーナー、隠している意味が有るのかちょっと微妙…。色気無いですよね…。