ゆきさえくら




 酔いを醒まそうと回廊を、僅かに怪しい足取りで歩いてみれば、呼気も凍えるほどの冷え込みようだった。



 自分は兄ほどに大らかな人間ではなかった。
 正月を祝う宴も、帝の御前で畏まるようなものは不快なだけだった。

 ああ、それとも、官人たちの意味の有るような無いような囁きや目配せ、曰く有りげな愛想笑い、若しくは殊更に大人たることを示そうとする仏頂面と不自然に伸びた背筋―――そういったものが耐えがたかったのだろう。

 堪え性の無い弟を、兄は黙って見送っていた。どこまでも、兄は自分を甘やかしてくれる。



 白く薄化粧した庭内に設えられた大岩を眺め、雪明りには程遠い暗さに司馬子上は身を浸しながら、本来なら極上であろう酒を不味くしか感じなかった自身の味覚の幼さに、一人腹を立てていた。
 それと同時に、物理的な寒さが身に凍みた。孤独には慣れていないという自覚は有っても、今それに思い至ることは不愉快の種をまた一つ増やしただけだった。

 一人は嫌だった。

 強靭な人間ではないことを思い知らされていた。父さえ居なければ強さの幻影をもう暫くは抱けたであろうが。
 怪物じみた父と正対するには、一人では無理だ。卑劣と言われようと、徒党を組んでも構わない。
 自分は兄のように孝養を尽すことなどできない、あの虚無の穴が口を開け舌をちらつかせるような瞳孔を見ると身体が竦むのだ。己の息子すら選別する獲物に過ぎないならば、それに勝る力を手にしなければならない。

 ひと一人の力など高が知れているなら、周りの人間の力も己のものと見せる力を持てばいい。



 決して、司馬子上の知力と胆力は父にも兄にも劣るものではなかったのだが、彼は父の足許に伸びる巨大な影に囚われ、狂的に捉えがたい力を欲した。司馬仲達は息子が大事を任せるに値するかを冷厳に測り、司馬子元は常に前のめりになるような弟の疾走を案じていた。

 苛立ちながら、司馬子上は無意識に爪を噛み、それに気が付いて更に不愉快と焦燥の種を増やし続けていた。

「………酒の一杯くらい、持って来るべきだったな。」

 螺旋に落ち込むような思考に身を任せているうちに、酒精も抜け、身体も冷え切っていたようだ。吐き出す息は氷の結晶と化し、その白さを何時までも留めている。
 さりとて、繚乱の宴席に戻る気も失せてしまっていた。
 楽舞は好んでいるし、宴は嫌いではない。だが幾つかの醜悪な顔を思い出すと、愛想笑いの気力は自分の身体のどこを探しても見当たらなかったからだ。



 風花が再び天から舞い降りてきた。
 司馬子上は、足に任せて廊下を多少乱暴な足取りで更に奥へと進んだ。どこも灯は落ちている。当然だろう、今宵は正月、天地を祀り夜が明けるまで宴なのだから。

 しかし、どこにでも変わり者は居るものだ。

 庭園の中にある四阿に細々と燭の灯が漏れていた。四囲を見渡せるよう、壁があるはずもないのだから、この寒い時期にわざわざ庭を愛でようという酔狂者はいない。また、愛でるべき花もない。

 まして、この雪。

 何処の阿呆かと、司馬子上は身軽に庭園へ降りると先客に断りも入れることなく無遠慮に四阿へ踏み込んだ。



 司馬子上の気配には既に気が付いていたのだろう。昏く冷え切った空気の中で、その男は立ち上がり拱手することによって自らの面を隠し、厚い壁を作って出迎えた。
 それを無視すると、卓に置かれた二、三の竹簡を手にし向かい合うように腰を下ろした。ざっと内容に目を通してみれば、流行の兆しを見せている老荘思想について論じた一篇だった。

「俗に染まることを厭い、仙界に身を焦がすものが官吏に居ろうとはな。」
「敵を知り己を知らば、百戦危からずと申します故。」

 静謐な声が微かに冷気を震わせた。
 凍えた気配に相応しい凛とした声ではない。吹き上げる風に舞い人知れず消えていく粉雪のような繊細な音律だった。

 伏せられた貌は何時の間にか上げられていて、光彩のない空ろな瞳が闖入者である司馬子上を凝視していた。

 容貌の造形は、頬から顎にかけての線が鋭すぎることを除けば、ほぼ完璧なものだった。肌や唇の血の気の薄さは寒さの為か。それにしても小刻みに身を震わせることなく、氷のような外気を長時間浴びても泰然としたものだった。
 そして痩身ではあるが自然に伸びた背筋と上背は、威風堂々とは行かずとも姿形を徳の現れとする儒者も羨むものといえた。

 そのような生まれ乍らの貴人の風を漂わせながら、明らかな違和感を感じさせる生気の失せた晦冥の眼。
 それは、まさに殿上人である将来が約束されている司馬子上が見たことのなかった、本物の『憎悪』の眼だった。

「何故、宴に出ないのだ。」
「天地の祭儀には参列いたしております。――控えるは末席ではございますが、私の顔を見て未だ惑われる方も多うございますので。」

 男は、話は終わったというように口を閉ざし、白皙の面を宴の広間へ向け、再び司馬子上の方へ向き直ると、「戻りなさい。」とでも言うように広間の方を指差した。形の良い長い指がゆっくりと動くのを、司馬子上は息を詰めて見詰めていた。仄かに震えた指先に、この男の寂寞が滲んだかのように感じられたが、その気配も直ぐに荒涼としたものへと戻っていった。





 魂魄というには、確かに命を感じ取ることが出来たが、あまりに幽鬼のような、蒼白な人物の名が『荀景倩』であると知ったのは、随分と後の話になる。











 ……あれ?もう少し、甘味のあるものになる予定だったのですが。
 やさぐれて余裕のない荀景倩とぐれる一歩前の司馬子上です。荀景倩の位が低すぎて面識は全く無しということで。司馬仲達の目に留まり栄達していくのはこのずっと後です。という脳内設定。
 問題は史実の方と照らし合わせずに勢いで書いているので、司馬子上がこのとき都に居るんかいとか、そもそも荀景倩と司馬仲達の面会って何時ごろだとかなんも考えてません。やばいと思ったら書き直します、さすがに。(実際どうなんでしょう。『論語集解』の時点で既に荀景倩は侍中ですからね…。)