やみのかで。




「司空が職を辞すると?理由は。」
「御母堂が御逝去された由にございます。」

 司馬子上は側に控えていた賈公閭の即答に頭を振った。
 荀景倩は魏国でついに三公まで登り詰めた。 最早、その称号に何の意味が有るのかと嘲るのは容易い。 しかし、彼にとって憂憤の中で冥い世界へと旅立った父への手向けは、ここに到りやっと叶った事だった。
 無論、来たる司馬王朝への禅譲も視野に入れた上での人事だ。 けして、名誉職という訳ではなく、根回し、儀礼、その他諸々の業務を晋国中枢と共に進めて貰わねばならない。

「あれは礼には忠実だからな…喪に服すのはよいが、体を損ねられるのは困るな。 あと、諒闇の期間もだ。職を変える積もりもないぞ。」

 暫く思案していたが、司馬子上は執務室を何も言い置かずに出て行った。 賈公閭は、それを押し留めもせず万事了解したかのように見送った。



 時の権力者が、前触れもなく訪なえば、どの邸宅の家人も慌てふためくのは当然だった。
 寂寥を思わせる静けさにあった荀家も多分に漏れない。
 静寂を掻き乱すほどでもない二三の囁きを背に、家宰が焦燥を表情の下に押し隠し、応対に出て来た。

「大変申し訳ございませんが、主は喪中ゆえ、どなたにもお会いにならないとのことでございます。 誠に心苦しき事ではございますが、どうかお引き取り願いますよう。」

 それでも、言うべき事は言い切るそつの無さはさすがと思えた。

「晋公直々に参ったと再度伝えるが良い。」
「主から、誰であれ、と命じられて………あ、困ります!」

 司馬子上の堪忍袋の尾は長くはない。家宰を押し退けるように、邸内へと踏み込んだ。
 背後で何故か家宰が安堵の吐息を吐いていることに、僅かな不審を感じたが、それも急いている気に押し流された。
 静まり返った廊下を勝手知ったるとばかりに、寝所へと足を向けた。

「入るぞ、景倩。」

 返事も聞かずに足を踏み入れた室内で見た光景に、彼は驚愕した。


 臥せっているであろう事は予期していた。 食も喉を通らぬであろうし、痩せ細り、顔色が土気色になっているかもしれない、とそれが司馬子上にとって最悪の想像だった。

 しかし。

 荀景倩の髪の総てが、新雪のように真白く変化していたのは、予想を遥かに超えていた。
 牀から流れ落ちている髪はさしずめ、雪解けの清流のようであった。
 ほんの一旬ほど前に、朝歌で顔を合わせた時は、昔からの若白髪のせいもあり、灰色の頭ではあったが、まだ黒髪の方が若干割合として多めだったと記憶していた。


 絶句していると、牀の傍らに彼の甥の子が控えている事に、初めて気が付いた。 荀文若の直系にあたる者。未だ嗣子の居ない荀景倩が溺愛していた筈だ。
 彼は歳若いにも拘らず憶することもなく、司馬子上に据手すると、臥せっている荀景倩と二、三言、言葉を交した。

 視力を失ったのか。
 一瞬、そんなことが頭を過ぎったが、そういう訳でもなさそうだった。

「……大変お見苦しい姿で申し訳ございませんが、ご容赦下さい。」

 甥の子に支えられながら、彼は身を起こした。眼は包帯で覆われていたが、それを自ら解いていく。

 白い喪装。白い褥。白い手。白い顔。白い唇。白い包帯。そして、白い髪。
 シロ、しろ、白。全ての色を拒絶したような、漂白された空間の中に漂うかのような荀景倩に、司馬子上は訳も無く慄然とした。
 艶やかな色の総てが汚れているかのような窒息しそうな錯覚に眩暈を覚えた。

 これは、闇だ。白さで覆われた、底なしの闇。

 司馬子上は、包帯の下から何が現れるのか、軽い恐怖すら感じたが、包帯から開放された荀景倩の顔にはいつも通り、静謐な夜を思わせる双眸が現れた。ただ、その眼は真っ赤に腫上り、普段より薄くしか瞼が開いていない。

「随分腫れているが…痛むのか。」

 初めは恐る恐る手を伸ばしたが、肌に触れ、やっと現実のものだと理解したのか両手で荀景倩の頬を包み、僅かに上向かせる。
 同時に、同室にいた荀景倩の甥の子と、荀家の家宰を退室するように促す。 甥の子の方は、若さゆえか興味の尽きない様子を見せ、後ろ髪引かれる様だったが、家宰はそれらしく無関心を装い、一礼して出て行った。

「らしくもない、乱れようよな。」

 首筋から肩へと掌を滑らせたが、皮膚の下に直接骨があるかのような痩せ方だった。脈動する血管も、肉も失われたかのように。司馬子上が躯に触れている間、荀景倩はぴくりとも動かず、口も利かなかった。

「汝は人形になったつもりか?」

 薄暗い部屋の中、薄墨で塗り忘れたような淡くぼんやりとした白い髪を、司馬子上は殿上人とは思えない武骨な指で梳き上げる。 幽鬼のような貴人をじっくりと愛でる時間はあった。










 肌に触れる風は、ひどく冷たかった。



 日差しは僅かずつ、朱を点し始めていた。道は黄色く染め上がり、直に藍色にその場を譲り渡し、そして、闇一色になる。





 室内は、先程灯りが燈されたばかりだった。
 額に汗の玉を浮かせ、荒い呼吸はなかなか収まらないようだった。瞼は更に赤みを増し、目尻には一刷毛の朱が入ったかのようだった。
 司馬子上の手によって、再び牀に横たわった荀景倩の眼は冷やした布を宛がわれた。身体の痛みについては、司馬子上が幾ら聞いても、荀景倩は答えようとしなかった。

「……あのひとは、実母ではありません。」

 呼吸が落ち着いた頃、囁くような小声で、荀景倩は呟いた。
 事実、牀の傍らに居る司馬子上に聞かせるつもりは無かったのかもしれない。

「わたしたちの、生母の妹にあたるひと。」

「たぶん、ころされるのは、わたしだったのですが、あのひとは、ふたりとも荀家の子だと。」

 彼の弟、荀奉倩と双子であったことは、どちらかに近しい者であれば、公然の秘密となっていた。双子は忌みだ。 時には一方が殺されることも稀ではない。

 これは夢だ。そう司馬子上は荀景倩の呟きに耳を傾けながら思った。
 母として孝養を尽しながら、荀景倩は一人の女としても見ていた筈だ。幼い時に、一度は経験する年上の女への憧憬。 そんな幻を棄てていくのが普通であろうが、荀景倩はそれが出来なかった。あまりにその存在が近すぎた所為なのか。
 ならば、女の老いの醜さも総て眼に収めたであろうに――いや、荀景倩自身が、大切に大切に、籠の鳥を育むように母を愛していたならば?さぞや、美しく老いた夫人がこの邸宅の奥深くに居たのだろう――荀景倩と同じように、まるで汚れの一つも知らぬ顔をして。
 それであれば、一目お会いしたかったものだ、と司馬子上は思った。

 世人は、荀景倩の至孝を讃えるであろうが、この白い貌の奥深くには、孝などといった表面的でない情念のようなものを巧妙に隠している。この者は、幾重にも本性を隠す薄い膜を張り巡らせ、その奥に辿り着いた者は恐らく誰も居ないだろう。本人ですら。

 どこまでも、飲み込む闇。
 その為か、彼は特定の人物との親しい交友を断ちつつあるようだ。
 やっと、その危うさに気が付いたといったところか。

 まあよい。

「景倩、いつまでもそのように繭に包まれていられると思うな。……汝を再び司空の座に就ける手段など幾らでもある。」

 逃げることは許さん。

 耳元に囁いたところで、荀景倩は眉一つ動かさない。
 暗闇の中、流れるままに、彼は、観続けるのだ、この舞台を。それが、自身に課した役目なのだ。
 その役目に、これまでも、これからも忠実であろう。最早、誰を喪うとも。











 もう何から言い訳すればいいのか、この勝手設定満載のオハナシ…。
 一先ず、皆様の注意を喚起すべきは、この時荀景倩は恐らく六十歳超えています。お爺さんになに無茶させるかな…。司馬子上殿も五十四歳くらい…?
 で、司馬子上は何をしたかというとですね、「漢の太傅、胡広が母を喪った時の故事に依った。」とあるんですけど、みなとにはよくわからない…。原文は、「給司空吉凶導従。」でこの「吉凶導従」がよくわからない…。ご存知の方、おられましたら御教授下さい。(調べろよ…自助努力の足りない人間ですみません。)