ひがしのみ。




「偶には羽を伸ばしませんか。」

 数寄者の荀公會が気軽に言った。神経がささくれ立っていることに勘付いたらしい。
 司馬子上が頷いてもいないのに、もう、車を呼ぶよう言い付けていた。





 荀公會は当然のように、妓楼へと誘った。一際高く聳える建物だった。

「貴公も、少しは悪い遊びをされるべきですな。」

 一回りも歳が違うというのに、大した言い草である。
 馴染みなのか、幾人か秋波を送ってくる。 慣れた様子で、主人にいつもの室を、と言っていたが。

「先客?」
「ええ、昨日から居続け。」

 この昼間からどこの御大尽だ、と機嫌を損ねたように荀公會が問えば、勝気な女主人は、旦那方はどうなのさ、と返してきた。

「一見さんよ。随分と毛並みが良さそうなひと。」
「旦那のお連れさんも、偉丈夫でいらっしゃるけど、あのお客さんはほんと品がいいわよね。 器量良し、挙措良し、…身につけてる香も都ではなかなか無いものみたいよ。」
「一体誰を枕を交わす相手に選ぶのかしらね。まだ、ご指名がないのよ。 芸妓だけ何人か呼んで、ずぅっと楽を奏してらっしゃるわ。」

 口々に顔を出した妓たちが囀った。

「…士季ではないのか。」
「いえ、奴さんはこういう遊びはしませんから。」

 深くは聞くまい。

「別に部屋なぞ何処でもよかろう。」
「何を仰いますか。この妓楼は眺望の良さだけが売りなんですよ。 それを味わえなければ、わざわざ此処まで来る必要はないんですから。」

 ちょいと旦那、と女主人が商売用の満面の笑顔で抗議する。
 人を人とも思わぬ荀公會の傲慢さは、そんな皮肉も平然と聞き流し、客の特徴について根掘り葉掘りと聞き出し始める。

 傍で件の人物の特徴を聞くともなしに聞いていた司馬子上は、はた、と思い当たると、 怪訝な表情の荀公會を置いて一人奥へと入っていった。





「――景倩。」

 司馬子上は乱暴に扉を開けると、窓に寄りかかり琵琶を奏している荀景倩の姿を認めた。
 そもそも、自身の不機嫌がこの男に原因があった。三日ほど前から病と称して出仕していない。 そんな時に限って彼の官僚としての才が必要になる案件が出てきたのだから、堪らない。
 人を遣って意見を求めても返事は無かった。

 室に一人だけ居り、笙を合わせていた芸妓を下がらせ、剣呑な空気を纏って司馬子上が近付いた。

「どういうつもりだ。釈明を聞こうか。」

 苛烈さを押し込むように、低い声で問うたが返答はなかった。
 荀景倩は漂白したように表情のない顔を、窓の外に向けたまま琵琶の弦を弾く手を休めようとはしない。
 端正さを謳われる彼だったが、今は冠も付けず髪は流れるに任せ、身につけている白い衣はだらしなく緩められていた。 日に晒されていない白い脚が、無造作に投げ出されている。

 尋常な様子ではなかった。

 白は喪である。荀景倩は、白で覆われていた。
 ただ、目元と唇の朱さが嫌に目についた。

「何を見ている。」

 怒気をどうにか収め、司馬子上は荀景倩に相対するように窓辺に寄り腰を下ろした。
 床に転がっている酒甕の数を目で数え、舌打ちする。明らかに普段の荀景倩の許容量を越えている。
 それでも、無心に爪弾いている琵琶の音に乱れはなかった。 経書にしか関心がないと思われている彼に、このような風雅な趣味があることを知る者は殆どいないはずだった。 司馬子上も初めて耳にしたが、奏法に熟達していることは意外であった。

 荀公會が絶賛しただけはあり、この窓からの眺めはなかなかに良かった。
 荀景倩が何を見ているのかと視線を追ったが、諦めた。静かな眼差しは何も映してはいなかった。



 琵琶の音を聞きながら、僅かに夢の世界に漂っていたらしい。
 司馬子上が意識を引き戻した時には、琵琶の音は已んでいた。部屋の中は薄暗くなり、燭台が一つ燈されていた。 何時の間にか目の前に、酒が並々と注がれた杯が置かれていた。
 荀景倩は、琵琶を脇において、手酌で杯を呷っていた。 酔眼は、変わらず外に向けられたままだった。東向きの部屋なのか、落日は見えない。



「………ひがしの、うみ。」


 宙を彷徨うように、窓の外に投げた視線を戻すことなく、荀景倩は呟いた。


「わたし、は。もう。」

 しんじつをしりたいとは、おもわない。

「ただ…。」

 ただ、あのひとが、かえっていった、うみを。

「うみを、みたく、て。」



「東海を踏む、その意味を…。」



 ものごころつく前に失った父を随分長い間恋い慕っていた。
 既に世情を知り、或いは派閥に組み込まれ微妙な空気を嗅ぎ取っていた兄たちと異なり、何も知らなかったために 父の死を巡る好奇と中傷に、深く傷ついた。
 それだけに、憎悪は深く、純粋なものへと昇華していった―曹魏という実体のないものへの底の見えない冥い憎悪。
 柔らかな外見からは想像もできないほど凍りついた内面。



「私が、東海を踏みに行くのだという父上の話の、その真意を知っていれば、知っていれば――!!」
「知っていれば、何が出来たというのだ、幼い汝に。」

 荀景倩は感情を高ぶらせ、傍らに置いた琵琶にぶつかりながら司馬子上の襟首を掴んだ。 弾みに空の酒甕がいくつか音を立てて転がった。 明らかに理性を失い支離滅裂な言葉を紡ぐ荀景倩に、司馬子上は冷淡な返答を投げ返した。
 答えの出ない問いを、彼は一体何時まで抱えて行こうというのか。 我を失うまで酔い、今目の前に人が居るのかどうか解らないほどだというのに、 両手の指の数にも満たない幼い記憶だけは手放すことができない。

 ああ、そういえば、この方角の先には。

 体重を預けてくる荀景倩を宥め賺すように、髪を梳きながらふと窓の外に眼を遣る。
 数え上げればきりが無い、東の方角の地名、行き着く先は海。そしてその果てにまだ島があり…。

 だが、荀景倩にとっては、一つの地名しかないはずだった。
 寿春。
 春の到来を寿ぐ土地で、荀文若は、憂いて死んだという。


 ―― 一体何を憂いて?


 司馬子上は頭を振った。それは己の思案すべきことでも、荀景倩が苦悩する問題でもなかった。 結果はとうの昔に出てしまっている。
 思い煩うべきは、今。
 司馬子上は冷酷なまでに今だけを見詰めていた。司馬家に課された命題だけを解き解そうとしていた。
 それが、支配者というものだ。過去の為に流す涙を、彼は一滴も持ってはいない。

「だからこそ、汝が必要なのだよ、景倩。」

 秘めやかに、過去を抱き続ける、その勁さと脆さを。何も語ろうとしない誠実さと、底無し沼のような昏い心底を。
 美しい仮面の下の混沌を、司馬子上はその才以上に、寵愛していた。

「だが、誰にも見せるなよ。その素顔は余だけのものだ。」

 不敵で真っ直ぐな野心家が集う吾の陰に、ひっそりと立ち続けるがよい。
 この司馬氏ですら手段でしかないと、無言で示し続けるがよい。



「それにしても、命日ならそうだと言わぬか。心配する…おい、景倩?」





 荒々しい足音が響いたかと思うと、扉が開け放たれた。
 室内では、荀公會を中心として妓女達が乱痴気騒ぎの真っ最中であった。歌を詠み、女が舞い、客が楽を奏する。
 入ってきた司馬子上に気が付き、荀公會は、妓女の腰に回していたのと反対側の手を挙げた。

「ああ、お待ちしていましたよ。まずは一献。」
「車だ。」
「は?」
「車を呼べ。…あと、桶を一つ、いや二つ。」
「…すみません、話が見えないんですが。」
「景倩だ、酔い潰れた。」
「いや、放って置けば良いじゃないですか。ここ、妓楼ですよ、いくらでも世話をする妓が…。」
「奴め、此処に来てから食も取らず酒しか口にしていなかったらしい。悪酔いするのも当然だ。 取り敢えず、酒精を全て吐かせる。だから桶を室に持って来い、いいな?」

 言いたいことを言うと、司馬子上は背を向け、元の室へ戻っていく。

「……おやさしいことで。」
「面倒見の良い旦那だねぇ。」

 欲の薄い一族の人間に、あの権勢欲の権化のような人間が、 なぜあれほど拘るのか気が知れない、というのが荀公會の正直なところである。
 まあ、面白いものは見ることができたから良しとするか、と頷くと、司馬子上の希望通りに手配を済ませた。

 荀公會が、己の分と、荀景倩の請求を司馬子上に回したのは言うまでもない。













 子上殿が景倩を背負って車に乗せていたら尚良しです。
 「はるがこない。」と少し話題が重なっています。「東海を踏む」という言葉は「自殺する」の雅語だとかなんとか。 原典は何だったか、意味も書きながら自信がなくなってきました…ご存知の方、教えて頂けると幸いです。(おい。)