「やはりよく似合うな。」
背後に立つ男は満足気に笑った。
言われた方は、振り返ると目を細め、氷塊を含んだ視線を向ける。
「その眼だ。蜀錦の紅さで一層映えるな、景倩の冷えた瞳は。」
「些かお戯れが過ぎましょう。」
荀景倩は凍えた光を胸のうちに仕舞いこむかのように、僅かに俯き、溜息をついた。
悪戯を仕掛けて悪びれない相手を見上げた時には、常から賞される温和さを瞳に浮かべていた。
秋も深まり、陽が落ちれば肌を刺すような冷たい風が吹く季節になろうとしていた。
荀景倩が、現在の権勢を象徴するかのような邸宅に足を踏み入れたのは、二、三の書籍を借りる為だった。
元々が学者肌だった所為か、彼は読書を好んでいた。
意地の悪い見方をするならば、魏国の重責を担う立場でありながら、万巻の書を紐解くことに没頭することで、
彼は大きな影から逃避しているとも取れなくもなかった。
一族の強大な功績から、権柄に阿り祖霊に泥を塗ると市井には批判の声も聞こえていたが、
彼は一切弁解じみたことを口にすることはなかった。
物静かに、荀景倩は熟れ落ちようとする魏王朝という名の果実を観察しているかのようだった。
司馬子上は、亡父が愛したその才を傍らに置いた。
他の寵臣に比べれば、才においても言動においても、随分と控えめである。
しかし、その広大な知識と慎重緻密な思考は重宝すべきものだった。
この穏やかな側近を誘う最も効果的な方法は、彼の読書癖を刺激するのが一番良い。
そのことを司馬子上は知悉していた。
名士を輩出してきた荀家の蔵書量は推して知るべし。しかし、司馬家も代々の名望家であり、希少な書籍も数多く蔵していた。
今宵は、久し振りに荀景倩がその誘いに乗った。――但し、目的の物を借りればさっさと辞去するつもりであったらしい。
「私に赤は似合いませんよ。」
優雅な仕草で、先程、司馬子上が背後から被せた着物を剥ごうとすると、その手を上から押さえられる。
「少しは愛でさせてくれても良いだろう。」
からかうように言うと、掴んだ手を引き書庫から出ると、欄干に身を寄せた。
冴えざえとした月が中天に架かっていた。
白い月光を遮る雲もなく、星辰がその光を薄れさせている。夜というには明るすぎる空だった。
廊下も庭も、青白く染め上げられていた。
蜀錦を羽織ったまま書庫の扉の影に身を潜めていた荀景倩が、滑るように司馬子上の傍らへと歩み寄っていく。
玲瓏とした荀景倩の面は、月光を浴びて更に青白く、翳がくっきりと浮かび上がり鋭さを増した。
ひっそりと咲く日陰の花。
朝歌の絢爛たる華に目を奪われる者は多いが、荀景倩の整いすぎた貌立ちは見過されがちのように思う。
本人が突出を嫌う所為なのか。
或いは、亡父が言っていたように、あまりにその容貌が荀令君に似すぎているからなのか。
「…これはご夫人のものでは。」
「なんだ、今頃気が付いたのか。」
荀景倩は、ようやっと掛けられた着物を検めて、それが女物であることに気が付いた。
司馬子上の返答に絶句する。
荀景倩も自分の父親と同じく、服に香を焚き染める習慣があった。
移り香をしてしまったのではないか。司馬子上の妻の勘気を知らぬ者など、この京師にはいない。
「だが、妻の服ではない。父のものだ。」
司馬子上は喉を鳴らした。「――言っただろう、それは蜀錦だと。」
荀景倩は、考える時の癖で片眉を上げると、漸く合点がいった。
「忠武侯からの贈り物ですか。」
「ああ、父上が何を思って保管していたのかは知らぬがな。」
諸葛孔明が五丈原に於いて、陣から出てこない司馬仲達を挑発するために女人の着物を贈ったことはよく知られていた。
荀景倩も話には聞いていたものの、現物を見るのは初めてだった。
手触りを確認して、それが一級品であることを確かめている。
着物の織り、文様と好奇心がそそられていることが、司馬子上には手に取るように分かった。
夢中になっている荀景倩の髪を梳き、そのままその手は、冠を止めている簪を引き抜いた。
冠が落ち、絹のような髪が解け薄い肩を滑り落ちる。
細い髪は、白いものが大分混じってはいるが、艶やかさが失せているわけではない。
彩を失くしたような月の光の下では、白髪も銀糸のようだった。
血の気のない顔色と相俟って、この世の者ならぬ気配を漂わせている。
蜀錦の鮮やかな紅だけが、無機質な荀景倩を「人」に戻していた。
「汝は美しいな…。」
この密やかに咲く花を自らのものとしていることに、改めて満足を覚える。
司馬子上は指先に荀景倩の髪を絡めると、それを愛でるように口元へ持っていった。
荀景倩は透き通るような瞳を閉じ、今宵は観賞の花となることを肯んじた。
了
あの着物を荀景倩に着せたいな、と。