われる。




 「暫く汝の顔など見たくもないわ!」



 それが一旬ほど前の閨での出来事だった。
 それから司馬子上は荀景倩の顔を朝廷に於いても、私的な空間でも見ていない。朝儀も尤もらしい理由を付けて出て来ないという徹底振りだ。
 まさかそこまでやられるとは。予想が甘かったと言うべきか、司馬子上の方が先に滅入ってしまった。


「…で、僕にどうしろと言うんですか。」
 嬉しげな童顔を隠しもせず、鍾士季は聞き返した。目の前には不機嫌にこめかみを押さえている主君がいる。

「わからんか。」
「わかりませんねぇ。暗殺ですか、失脚ですか?存在そのものがなければ、悩む必要も無くなりますし。」

 物騒なことを歌を詠うように紡ぐ口は今に始まったことではない。だからこそ懐刀としてもいるのだが、今は司馬子上の気に触っただけだった。
 そしてそんな主君の顔色を読むのに長けている鍾士季はさらりと掌を返してみせる。

「痴情の縺れの後始末をしろということですね。で、できれば撚りを戻すにしても荀殿から言い出して欲しいと。都合良すぎはしません?」
「わっ、別れた訳ではないぞ。行き違いが在ったから誤解を解きたいと」
「同じことじゃないですか。あーあ、貧乏くじ引いたなあ。」

 後に話を聞いた荀公會など、「子上様が如何にうろたえていたか、人選を見れば一目瞭然。最悪の輩じゃないか。」と評したとかしないとか。



「判っているのかな、子上様も。荀殿って僕の好みの条件をかなり満たしているんだけどな。」



「仲介を頼まれましたか。」

 鍾士季が荀景倩の執務室に入った第一声がそれだった。可聴領域の最低ではないかと思われるほどの囁き声。しかし、その声は鍾士季の耳を捉えるには充分なほどだった。

「あの方が自分で来ると」
「思いませんね。」

 お互い唇が動いているかどうかという程の、小声の応酬。荀景倩の穏やかな物腰に変化はない。墨を含ませた筆は無駄な動きを省いて、文字を綴る。その動きに怒りや苛立ちといった感情は一切表れていない。
 鍾士季自身の騒々しさも、この室内の静謐に包み込まれてしまったようだった。

「貴方は本当に仙境に何故居ないのか不思議なくらい。」
「業が深い…ということでしょう。」
「業って何?子上様?」
「鍾殿、はっきり言って仕事の邪魔です。貴方には貴方の為すべきことが山積しているでしょう。出て行って貰えますか。」
「驚いた、怒ってたんだ。全然顔にも声にも態度にも出ないんだ、凄いなあ。」
「聞こえませんでしたか。」
「聞こえてますよ。ひとまず退散するけれど。そうですね、続きは例の眺望で売れている妓楼なんて如何です?」

 まるで秘め事を告白するように、鍾士季は殊更に声を低めてみせる。ひくりと荀景倩の肩が震えた。

「…いいでしょう。」





「奇妙な話だよね。妓女を買わない人間同士で妓楼の最上階を陣取って酒宴を開くんだから。」

 楽しげに鍾士季は杯を干した。
 荀景倩は心ここに在らずといった態で窓の外をぼんやりと眺めている。

「ね、女将にお願いして琴を置いて貰っているんだ。弾いて貰えません?」
「誰から…というのは愚問でしょうね。」
「うん。それにね、ここに来たら仲介も面倒臭くなって。むしろ貴方自身のことが知りたいな。」
「お酒に弱いのですね。意外です。」
「うん、酔ってるかもしれない。でも醒めてるよ。」

 まるでしなやかな猫の様に表情をくるくる変化させながら、目の色だけは獰猛な虎の如く変わらない。鍾士季は瞼の縁を朱にほんのり染めながら、瞳は濡れる事なく正面から荀景倩の、感情のない目を見つめた。舌を出して、薄い自身の唇を舐めながら。

「ご所望の曲はありますか。」
「胡茄十八拍、は如何?」

 まだ、それ程広められていない曲を、鍾士季は希望した。
 知っている筈だ、と思っていた。望まず流浪の身となった女人の詩。荀景倩はどこかで共感を覚えている筈だ…。
 その読みは当たっていた。荀景倩は眉一つ動かす事なく琴に手を置いた。
 どこまでも乾き切った音律。恨みも嘆きも、全て胸に納め、ただただ乱世の波間に漂う悲哀に昇華させた旋律が、荀景倩の手によって、異なる響きが加えられる。余人には聞き取れぬほどに微かな不協和音。だが、その異質な音も、彼自身の技巧によって巧妙に調べの中へ埋没して行く。
 どれほど感情を押し殺そうと、楽を奏せば露わになるだろう。鍾士季はその複雑に織り込まれた楽を間違う事なく聞き分けながら、何食わぬ顔で耳を楽しませる風を装った。

「その曲、僕の為に弾いてはくれませんでしたね。ねぇ、貴方の父君は何処へ逝ってしまったのかなあ。折角の名奏も聞かせる相手の所在が知れぬと…。」
「異なことを。私の父が死去したのは、随分古い話です。貴方のご所望の通りに演奏したが、至らぬところ在らば御教授願えますか。楽奏は我流ですので。」
「古い話ですか。僕にはとても新しい話だけどさ、この蒼天の下、父祖の功に更なる光輝を齎さずに泥を塗る、時の裂け目に墜ちていく士人が、貴方の目には見えているでしょう。」
「天命に逆らうは愚ということでしょう。」

 荀景倩の面白味に欠ける返事に、鍾士季はますます笑みが濃いものとなる。自然に背を延ばして坐していた荀景倩の側に音も無く素早く近付き、顔を息が吹きかかるまでに寄せて来た。そして桃色の爪先を持つ人差し指で、景の喉元に触れると、そのまま、胸部の中央まで滑らせた。
 荀景倩はその光景の一部始終を瞳に映しながら、微かも動かず、声を漏らすこともなかった。

「ふぅん、そうやって全てをココに飲み込んでしまうんだ。どんな妖が溜って育まれてるのか、本当に腹を裂いて見てみたいですよ。」

 鍾士季はそう言うと身を逸らせて狂ったように、一時嗤い続けた。
 かと思うと、陶然とした眼差しで、荀景倩の白と黒の混じり合った髪や色素の薄い頬に触れたりする。

「一体何処で、玉を砕いたの?瑕も濁りもなかったのに。」

 荀景倩の耳を隠していた髪を指で梳き上げ、口を寄せ吹き込むように囁いた。

「綺麗なきれいな玉だったんでしょう、荀殿。でもこんなになって。」

 鍾士季は懐から丸く研磨された玉を滑るように床に落とした。小さくともそれが最高級品であることは間違いなかったが、それをいとも無造作に扱って、嫌味がないのが鍾士季という者だった。彼は自分が認めたものだけを愛する。他には興味がないのだ。
 玉は割れることなく、甲高い音と共に一度跳ねると、床を転がり荀景倩の膝にこつりと当って止まる。目を落とし、持主に見捨てられた哀れな宝物を拾い上げると掌にのせ、すぐ傍の鍾士季の鼻先に突きつけた。
 光に透けた時、玉の表面には見えない中の瑕による乱反射が小さく見えた。

「ほら、貴方だ。透き通っているのに歪んでいる。」
「………そして、鍾殿の指一つで、私の首が落ちるわけですね。この玉のように。」
「まさか。貴方は勘違いをしているよ。この玉が要らなくなったのは、貴方の方が僕にとっては何倍も綺麗で完璧な瑕を持っているからだよ、同じものは二つも要らないでしょう?」

「完璧なまでに、真っ二つに割れてしまったんだよね?」


「ねえ。」




「……………兄上。」



 がたん、と琴が床に落ちると同時に、鍾士季の身体は壁まで吹き飛ばされた。

 激しく咳き込み、鳩尾の激痛のため、ぱちんぱちんと吹き飛びそうになる意識を何とか留めて、歪めた顔で己を叩き付けた相手を見遣った。相手は、もう長年、いや一度もそのような乱暴な所業を働いたことはないに違いない故か、理性が弾けたことによって垣間見た自身の本性に恐怖を抱いたのか、激しい息遣いで片膝を付いて、肩を震わせていた。

「……やっぱり。」

 鍾士季は体勢を立て直しながら、口中に広がる濃厚な鉄の味と臭いを感じた。身体を軋ませながらも、自分が優位に立っていることを確信していた。
 主君と目前の貴人の口論は、確かに犬も食わない類のものだったのだろう。お互いに引っ込みが付かなくなった末の騒動に過ぎない。

 ただ、腑に落ちないのはきっかけだった。主君曰く、まどろんでいたところ、急に態度を変えたのだという。

 個人的に荀景倩と居る時、面と向かって言ってはならない言葉を寝言で吐いたということだ。

「それこそもう、数十年昔の話じゃないですか。貴方はそんなに荀奉倩に心を残しているんだ。」
「黙れ。」
「ははは、なんて素敵な舞台なんだろう。これほど歪んだ人間なんてそういない。完璧ですよ。」
「…五月蝿い。」
「この妓楼で琵琶を弾いていたと聞いたけれど、それは父君に捧げるものではなかったんだね。孝子どころじゃない、謀られている世間は大馬鹿だ!」

 力無く座り込み、俯いたまま鍾士季の弾劾とも嘲笑とも取れる言葉を、しかし荀景倩は呟くように否定した。

「………鍾殿、貴方は最後の最後で、読みを違えています。」



 それも最早どうでも良いことだ。


 父の無念と憎悪を、私たちは分け合っていたのだ。
 そうして二人で一つの玉を象っていた私たちはお互いの影だった。
 奉倩を喪った時、私には憎悪しか残されなかった。
 父への敬慕も母への孝養も妻への慈愛も、すべて憎悪に飲み込まれていく、この恐怖を誰が知るのか。
 それらを思い出すよすがを、すべてを共有するものを。

 私に「兄」と呼びかけても良い者はただ一人。
 もうこの世には居ないただ一人。………












 明らかに着地点を見失いました。司馬子上がただのお馬鹿やん。
 鍾士季は「令君のことなんとも思ってないやん」と言っていますが、これは間違いです。荀景倩の出発点はすべてパパ。ただその思いが大きすぎて、同じく大きすぎて持て余していた荀奉倩と共有した、というイメージです。かなり密着した共犯関係。なので、弟以上の存在。だから荀景倩は他人から兄と言われることを嫌うのです。
 荀公會が嫌がらせのように「荀兄殿」とか呼んでたらどうしよう。
 せっかく鍾士季を狂言回しに持ってきたのに、うまく描けなかった…勿体無いです。
 外に出してもいいかなとは思いましたが、かなりイっちゃってるので裏格納となりました。せめてもう少し色気が出せないかなあ。疲れてるのかなあ。