『蜀漢政権論―近年の諸説をめぐって―』 著:上谷浩一 (「東方学」所収)

概要

 蜀政権の性格と意味について、荊州人士を中心に。

 蜀政権の中枢を非土着の荊州人士が担ったことについて、彼らの中でも、Ⅰ.劉備の荊州時代に配下になったもの、と、Ⅱ.前政権(劉焉・劉璋政権)に属していた非益州人士に分けられる。
 ではⅠ.とⅡ.は対立した関係にあったか。まず諸葛亮と法正の間で考えていく。

 ここで、この両者が対立したと考えられる点について、劉備の立場から、当初より自分を支えてきた任侠的集団を上回りつつあった、Ⅰ.の「名士」層への牽制という見方がある。しかし、Ⅱ.の法正にしても「名士」の起用(許靖など)を進言しており、劉備と諸葛亮の間だけでなく、法正との間にも摩擦があったと想定する必要がある。
 このような劉備と諸葛亮の摩擦について、諸葛亮の官位の低さが挙げられる。しかし、劉備を漢中王や帝位に推す上書の序列において、後漢王朝の官職を得ているものに次いで、諸葛亮の名があり、その後、関羽・張飛といった任侠集団、非益州人士である法正と続いている。
 この諸葛亮の官位(軍師将軍・署左将軍府事)と実権の不均衡は、三省を中心とした行政組織の未成熟と、混乱の時代における変化に対応しやすい軍府に現実の権力が存在したためではないか。それは、諸葛亮・伊籍・法正・劉巴・李厳の五人で「蜀科」を制定したことから推測される。実際、法正が諸葛亮の法治の峻厳を諫めた事実から、諸葛亮が政治の中枢に居り、法正も是としていたと考えられる。
 諸葛亮の官位の低さは、非益州人士への配慮とみるべきだろう。

 このようなⅡ.の人士への配慮は、劉備が呉皇后を娶り、李厳にも後事を託し、費禕を抜擢する等に現れているが、そこまで優遇する理由は何か。

 これには、劉焉の部曲であった「東州士」とⅡ.の結びつきがある。
 劉焉の死後、「東州士」と土着人士との対立が深まり、土着人士側の反乱を招いた。この州内での混乱が、Ⅱ.の州外からの強力な権力を求める結果となり、劉備入蜀の画策に繋がっていく。劉備入蜀の際、Ⅱ.の抵抗は少なく、土着人士(張任・厳顔など)の抵抗が激しかったことと対応している。
 蜀の軍隊はほぼ十万人であり、州外出身者が多かったことは、「東州士」が軍事力として吸収されたと見るべきである。「東州士」への軍事力の依存は、荊州陥落とともに更に高まった。同時にⅡ.の人士の中心であった李厳の地位は高まり、諸葛亮と後事を供託されることになる。
 そして、この李厳の失脚についても、Ⅱ.への諸葛亮の配慮が見られる。李厳廃立の上書には、Ⅱ.の人士を含む政権上層部全体の合意という形式になっている。

 このⅡ.への配慮は、諸葛亮死後も続く。
 Ⅰ.の人士である蒋琬の時代には、軍事面では呉壱と鄧芝、行政面では費禕と董允が重用されている。そして、費禕の時代には、Ⅱ.の第二世代である呂乂や陳祗が起用されている。
 しかし、次の時代の姜維は蜀政権のどの集団からも孤立した状況である。政権の人的バランスからいえば、彼は後継者として求められていなかったため、対魏積極策に向かったと思われる。

 では、蜀政権と土着豪族とはどういう関係にあったか。

 蜀の土着豪族が求めていたのは、既得権益の承認である。
 劉備の入蜀前後、土着豪族と「東州士」の対立だけではなく、諸勢力がの利害対立があり、劉璋はそれを調整する能力に欠けていた。劉備に求められたのは、「公」権力の回復であった。
 土着豪族への配慮は、地方官への任用や、富国強兵策において、既得権益と競合しないよう、南中の開発・塩鉄の専売・蜀錦増産などで補われた。

 こうして、「東州士」の武力は州外へ向け、土着豪族の権益を州内で保護することによって、両者の対立を避けた。

 「名士」を利害関係から超越した存在として、在地社会と切り離す議論があるが、Ⅱ.と「東州士」の繋がりを見る限り、在地社会と切り離されたと見なすことはできない。Ⅱ.は「東州士」の武力を背景に重用されていたからである。

 蜀滅亡後、大規模な徒民政策により、州外出身者が退去させられた。蜀政権の役割の終わりといえる。

 余談:劉備入蜀前の混乱の時期、「功を誇って驕った」とされる、趙韙の元部下、李異について呉の将軍に同名の人物が見られることから、呉に降った可能性がある。



ひとりごと

 姜伯約の登用は確かに人事バランス悪いよなあとは思ってました。費文偉が後継者を見出せなかったのが遠因か…?