『蜀漢政権の構造』 著:狩野直禎 (「史林」所収)

概要

 蜀における、土着豪族と非土着人士の政権構成について。

 蜀は土着政権ではなく、政権の中枢は非土着人士が優位に立っていた。
 益州豪族は、ほぼ後漢時代に成立している。彼らは蜀政権に自己の既得権益を保護することを期待し、建国の大綱である中原回復、漢王朝復興の出兵には賛成していなかった。

 諸葛亮の死後、丞相こそ置かれなかったが、国家の中枢を握るのは「益州刺史を領し、尚書事を録する」ものだった。後漢以降、尚書系統の職が重んぜられたことから、蜀においても、それを継承したのであろう。
 録尚書事に任ぜられたのは、諸葛亮(琅邪陽都)・蒋琬(零陵湘郷)・費禕(江夏・劉璋の母方の一族)・姜維(天水冀・益州刺史は領さず)の四名である。
 また、平尚書事となったのは、馬忠(巴西閬中・県の大姓)・諸葛瞻(亮の子)・董蕨(義陽)の三名である。そして、尚書令となったのが、法正(右扶風郿)・劉巴(零陵烝陽)・李厳(南陽・亮と後事を併託される)・陳震(南陽・彼の後しばらく尚書令は置かれず)・蒋琬・費禕・董允(南郡枝江・四相とも四英とも称される)・呂乂(南陽)・陳祇(汝南・費禕に見出されるも黄皓と結託)・董蕨・樊建(南陽)の十二名である。
 馬忠を除いて、外は非土着人士で占められている。このことから、蜀政権は非土着人士、特に荊州人士によって動かされたといえる。この傾向は、尚書系の属官にも言えることである。
 これは丞相府所属の官にも当てはまり、諸葛亮時代のものではあるが、非土着人士によって占められている。他、開府を許されたのに、蒋琬・費禕・姜維がいるが、断片的にしかその構成はわかっていない。

 では、益州土着豪族はどのような職に就いたのか。

 前漢の時代から、刺史は本貫の任地は避けられた。そのため、統治の円滑化を計り、属官として地方土着のものが任ぜられていた。その属官が豪族化していく。
 蜀においても、益州刺史の属官は前代と同規模のものが置かれた。益州従事史として置かれたのは、治中従事・別駕従事・議曹従事・勧学従事・典学従事・部郡従事・督軍従事・従事祭酒などがある。
 そして、これらの職に、県の大姓が就いており、地域的な支配権は失われなかった。蜀においての大姓が晋の時代とほぼ一致するのは、蜀政権時代を通して自己の地盤を固めていったためと考えられる。しかし、一流貴族となることはなかった。
 中央政府に対する出兵への反発は、周羣(巴西閬中)・張裕(蜀・成都四姓)・張翼(犍為武陽)など、益州豪族の層が中心となっていた。

 蜀政権の中枢は荊州出身者が、州郡の官吏として土着人士が占め、益州人士は前代に引き続き成長していったと言える。

 余談:陳寿は三国志の執筆の時、晋代に使用された呼称をそのまま用いることがある。



ひとりごと

 開府を許された残り三人がどんな人事構成をしたのか気になりすぎる。姜伯約は嫌だって言っている張伯恭をむりやり軍府に迎えてそうだー。(何の嫌がらせ…。)