『魏・呉・蜀の政治的社会的独自性について』 著:矢野主税 (「長崎大学教育学部社会科学論叢」所収)

概要

 三国鼎立の時代にあっても、第四の勢力として、「全地域的な全士大夫団」が果たして存在したかの検証。

 まず、ここで指す全士大夫団とは、地域的に全国に及ぶものであること、後漢末の清流勢力を中心にした同士的結合のことである。
 しかし、当時は全国から人材が地方から中央へ集中し、そこに現実の生活の場を持ったものと考える。彼らは地方郷党から離れ、中央の国家権力に依存して生活していた。婚姻も地縁関係と全く関係なく行われており、全国から中央に集まった人々が、彼らのみの郷党を作り上げていた。
 また、名士とは社会的存在であり、清流勢力は政治的存在といえるので、この二者は同じものではない。

 魏では、後漢末に成立した、超郷党的性格を受け継ぎ、中央性を有していたといえるが、華北地帯のみの占有という点から地域限定的な継承であった。

 呉において、孫権が孫策より権力基盤を継いだときの状況は、江南士大夫との間は浮動的なものであったと陳寿は記している。しかし、陸機の『辨亡論』によれば、三十五名、呉政権を支えた人材として挙げている。陳寿の列伝基準については、「為人」と「政権密着度」で同一列伝に記述されている。
 孫氏の権力基盤について、まず、孫堅時代は江北地方で転戦し、江南地方に定着はしていない。このころの家臣は江北出身者で占められている。
 次の孫策時代には、士大夫の協力を得、建安元年の頃に江東に安定した基礎を築いた。しかし、漢臣の立場は崩さず、曹氏と婚姻関係を結んでいる。この時代に家臣となったものは、孫策が会稽郡中心に勢力を張っていたことから、江南出身者の比重が増えてくる。
 そして、孫権の時代、江南一帯を支配下に置いたとはいえ、「未有君臣之固」という状況だった。この時点では個人を中心とした豪族集団というところであったが、魏の黄初三年を改め、呉の黄武元年と定め、蜀と同盟関係を結んだときをもって、実質的な呉政権の成立があったとみることができる。
 孫氏政権の中核を成していたのは、呉志の七、九、十三に記されている人物だが、このなかで、江南出身は陸遜一人のみである。しかし、現実には本貫が江北であっても、漢末の乱を避け、江南に生活の場を移したことによって孫氏との関係ができたと考えられる。ここから、人的構成でも地縁による政権といえる。

 蜀政権は涿郡出身者・荊州人士、蜀に定着していた人士に支えられていたといえる。これは、劉備の勢力伸長過程から、徐州刺史となるまで、荊州支配まで、益州支配までの三段階から考えられる。
 特に、荊州時代までに劉備に付いたものは、苦難を共にしており、この時点で、後の蜀を樹立するための人的な準備を完了したといえる。従って、蜀政権は荊州人士と土着の益州人士との協力にの上に成り立っている。
 呉政権のように、江南という単一の地縁から形成されていることに比べれば、複雑な構成となっており、劉備という中心が存在したための政権である。しかし、地域的には益州を中心とし、荊州・益州に定着していた人々によって構成された地方政権であったと考えられる。

 全国的士大夫が存在しなかった論証のため、まず、交友関係について考察する。
 まず、呉の社会において元々江南に居住していた人士のグループと、江北各地から江南にやってきた人々のグループが認められる。これらのグループは、人物批評を通して名声が高かった、「斉名」と呼ばれるものである。そして、張昭親子の例から、幅広い斉名グループが江南に形成されていた。
 これらのグループは移住郡を越えた社会の実在を明らかにしている。
 この時代の時論とは士大夫社会に属する人々のものであり、輿論とは、彼ら士大夫社会のなかの話である。呉志では時人として孫氏集団に属する人々を指しており、独自の輿論形成の場があったといえる。
 とはいえ、全く三国に交流がなかったわけではない。しかし、王朗が嘆いたように、自由に意志の交流がなされ、互いに影響を及ぼしたとは考えられない。
 蜀においても呉と同様に、健為・巴西・巴・蜀郡出身の人物が「並知名」として、まとまりとして評価されている。これは、華北の士人と蜀の士人を対比するとき、別の単位として独自の社会を認めていることから明らかである。

 次に童謡を通じてみた場合はどうなるか。
 これら童謡は、士大夫社会に対し、不特定多数によって語られる、民間の声なき声というべきものであった。
 後漢時代の童謡については、第一に桓帝以降に集中していること、第二に洛陽中心であることである。これは民衆の意志が中央に集中しており、全国的なものであったことを示している。
 しかし、三国時代においては、魏・呉・蜀の地域の中での童謡しか生まれていない。魏については、晋書に記されており、また、魏志の裴注に引用されている。呉志にも本伝中に記されている。しかし、これらはあくまでそれぞれの政治権力の及ぶ範囲にとどまっており、地方性がはっきりしている。
 蜀については、蜀志の中に全く採用されていない。これは陳寿が採用しなかったと考えられるが、なぜ、呉のみ童謡を取り上げ、魏・蜀において取り上げなかったのかは別の問題である。しかし、蜀においても、魏・呉と同様であったと考えられる。
 これより、三国時代には国を越えた全国性を持つ童謡は成立していないといえる。

 次いで、婚姻関係においてはどうなっているか。
 まず、魏における婚姻の特徴として、魏政権に属する中央官僚家相互の婚姻ということがあげられる。特に、夏侯氏に限れば、曹氏との通婚が目立っている。これは、彼らの生活圏・社交圏が、政治生活圏と一致していたことを示している。
 通婚相手が曹氏から司馬氏へと移っていったのも、郷党から華北中央への指向とみることができる。
 呉においても、江南出身の有力者間、中央官僚家相互の婚姻、その中心に孫氏があり、そこへ指向している点は魏とほぼ同じである。特徴的であるのは本貫が江北にある人々と、江南土着の人々の婚姻であるが、これも現住所を媒介としたものとして差し支えない。つまり、江南という地縁性のもとに成されているといえる。
 蜀については資料が少ないため省略。

 これらのことから、士大夫の社会生活は、全国的なものは存在せず、三国それぞれの地で形成されたと考えられる。



ひとりごと

 三国の地方性より、陳承祚が蜀の(魏ならまだしも。)童謡を記録しなかったという点が気になって気になって。