『蜀漢国前史』 著:狩野直禎 (「東方学」所収)

概要

 劉焉擁立運動から入蜀後の状況についての論文。

 まず、劉焉の経歴に始まり、牧の建議を行い益州牧となった経緯が書かれる。牧の建議の折り、交趾を希望していたが、当時侍中であった董扶の「益州の分野に天子の気あり。」という言葉によって益州牧となった。
 この牧の制度は後に、清の何焯が『義門読書記』において「州任重くして土地分裂し、ついに鼎足の運を成す。」と指摘するように地方が分裂し、蜀漢国がここに始まったと論じている。

 劉焉の入蜀は、巴蜀の豪族にも支持されたが、当時、凉州からの反乱で阻まれていた。
 まず、益州入りを支持した者に、前述の董扶(広漢郡綿竹)、趙韙(巴西安漢郡)、賈龍(犍為・部益州従事)がいる。彼らは任岐と京師での輿論の中心であったり、巴蜀の大姓であった。
 劉焉が益州牧に任命された頃、益州には凉州の馬相・趙祇らが侵入、綿竹で県令の李升を殺害、更に雒県を破り益州刺史の郤倹を殺害、蜀郡・犍為に至り、自ら天子を称した。この渦中、巴郡も攻撃し大守を殺害している。
 このとき、賈龍が家兵を中核に吏民を集め、乱を平定し、劉焉を益州に迎え入れた。これが中平五年六月のことである。
 しかし、益州豪族は自己の利益を守るために、自らの中から頭領を得なかったのは一種の悲劇である。

 次に、劉焉配下の中でも、非益州人士の構成について。
 益州豪族の支持が浮動的であったのに対し、婚姻や門生故吏の関係で結ばれていた者に、呉壱(陳留)、呂常(南陽)がいる。
 また、最も勢力が大きかったものに、南陽人を中心に構成されていた『東州士』がある。南陽太守をつとめたこともある劉焉はその地で特殊な関係を築いたものと考えられる。

 劉焉の益州支配は東州士の力に依存し、推戴を受けた益州豪族と対立した。
 まず、第一に、張魯の五斗米道を認め漢中に住まわせ、漢使を殺害し、関中との連絡路を焼き、「米賊道を断ちまた通ずるを得ず。」と中央に報告した。第二に、州内の大姓でもある巴郡太守の王咸、臨卭長の李権(梓潼郡涪県)ら十余人を殺害した。
 初平二年(191年)犍為太守任岐と賈龍らが、董卓の助力もあり兵を挙げ、成都を焼き迫ったが、綿竹にいた劉焉は東州士の力によって乱を平定、二人を殺害した。この後、益州豪族は劉焉の下、官僚となって政治的経済的地位を保全する方向へと変わっていった。
 劉焉は自らを天子と擬したが、息子二人の死と、綿竹の天火による心労が原因か、病死する。

 劉焉の死により、劉表の援助を受け、沈彌・婁発・甘寧(巴郡臨江の大姓)が叛する。しかし、趙韙・王商(広漢郡{妻におおざと}県)のように官僚となった益州豪族は、劉焉の第三子劉璋を擁立し、趙韙は征東中郎将となり、甘寧らを退けた。
 劉璋に対する陳寿の評価は「明断少くして外言入る。」と益州豪族や東州人士の発言に左右された政治の実相を表している。これは、唐の太宗が晋の武帝を評し、「心しばしば衆口にうつり、事おのれが図に定まらず。」という門閥の意見に左右されるなど、時代的なものも表していると考えられる。

 劉焉・劉璋時代の官僚の構成はどうなっているか。
 結論からいえば、約三分の二が益州出身者であり、そのうちの三分の二が大姓と推定される。非益州人では、南陽出身者が多い。
 これら官僚相互の衝突と、東州人の横暴、利益保持の動きは、劉璋の政治性の不足と相まって、滅亡を早めた。
 この闘争の一つとして挙げられるのが、趙韙の乱である。
 建安五年(200年)、趙韙は劉表・州中の大姓と結び、反東州士の兵を起こした。しかし、東州人の防戦と、趙韙の将であった李異が背き、趙韙は殺害され、一年で乱は治まった。この間に、張魯は劉璋から離反する。
 これらの州内の不統一を利用され、劉備の入蜀を招くことになった。この豪族の自己の利益の保身と伸長が、外部の人間の擁立となり、劉備の入蜀拒否となり、対魏戦に反対する動きとなって現れる。

 劉備の入蜀後も、成都では一日に数十回の暴動が発生し、鎮めることが難しかった。そのため、豪族を味方に付けるために能力主義を採用したといえる。



ひとりごと

 甘興覇の反乱は覚えていたのですが、この時代にこんなに反乱が頻発していたとは思いませんでした。個人的に賈龍とか気になる。あと、東州人士って劉玄徳の時代にどう扱われることになったんだろ?