げんはまだ。




 ききき、き。



 き。き、りり。





 きり。きりきり。きりりりり。








「―――――っがは、っ!」


 それは不快な目覚め。

 夜着は体内の汗を搾り尽したかのように重く冷たい。
 眼球の奥を基点に、銅鑼を鳴らし続けるような鈍痛が脳髄に廻り始める。血管の細部に行渡るのは澱みなく流れる鮮血ではなく、黒々とした獣の、粘性の毒だ。
 獲物を欲し、牙や爪を砥ぎに磨いだ。もう限界だと、音しか憶えていない夢の残滓が訴えていた。


 月の光も失せた夜明け前、室内に火が入るまで、甘興霸は寝台に片膝を抱えたまま、夜行性の獣のように只、身を竦ませる。顔を覆った右手の指の隙間から、充血した眼だけを朱く光らせながら。
 霜が降りようという底冷えも、沸騰した血管を冷ます事は出来なかった。








 蒼穹の高い午近く、蒋公奕は配下の兵を副将に預け、自身不向きだと感じている書類仕事を片付ける為、城内に単騎で戻ってきた。
 厩の前には弓兵の調錬に使われる広場がある。今朝も使われ、まだ的の入れ換えが為されていないのか、入り乱れ穿たれた鏃の痕が生々しかった。

 その隅に紅雪の如く生い茂る楓樹の木陰で、孫呉の兇器がだらしなく座り込んでいた。
 覇気が失せたような虚脱した表情を見せているが、それは沸点が近いことを示していることを知らぬ者はもう居ない。

「甘将軍、配下の兵はどうしたのだ。」
「殺すなと主上と子明に釘を刺されたからな。」

 この男なりに、細心の注意は払っていると謂うことだろう。とはいえ、不気味さに変わりはない。
 湿った落葉を踏み締める蒋公奕の身動ぎも耳に届いていないような無関心さだった。



 快楽でもない。選別している訳でもない。欲でも見栄でもなく。
 生存本能としての殺人癖、といった行為は蒋公奕の理解を越えていた。人畜には決して馴れぬ狼を飼っているようなものだ。

「いつ見ても思うんだが、―――下らんな。」

 ふいに甘興霸が口を開いたかと思うと、何十という矢を受けた無残な的を指差した。
 何がと問う間もなく、甘興霸は混線した思考回路のままに、「越人狩は楽しいか。」と聞いてきた。

「狩ではない。山越族が夷狄とはいえ」
「懐柔すれば役には立つかもしれんが、呉越並び立たぬは始皇以前よりの真理ではないのか。身中の虫は抱えるくらいなら殺し尽せば良かろう。」

 主上が甘興霸を山越族の戦線に立たせようとしない理由は幾つかあるだろうが、制御の利かない狂癖もその一つだろう。
 他国への牽制になるその梟悍さも、内地の乱には逆効果しか呼ぶまい。総てを等価に劫掠し、涯限まで屠戮し続けるとも飽くことを知らない豺狼の眷属を深山に解き放って得られるのは。



 き、ききき。




 人血で濁った長江と地に浸み込む怨嗟。終局なき平定戦。



 き、き、き、きりり。




 番えられれば、放たれるしかない矢は、無名の帥に濫りに用いてはならない。


「頭ン奥で鳴り物が五月蝿えんだよ。俺の見える世界に赤だけが足りん。土と銅と鉄と死臭だけが足りん。」



「今此処に居る昂揚の為に必要な、噎せるような鉄錆の臭いと臓物の感触が足りねえ。」





 半透明の膜に覆われた仰向けの魚の目に似た甘興霸の瞳からは、理性が完全に漂白されつつあった。

 ―――斬るか?

 孫仲謀や呂子明のような度量の深さは、生憎お堅い蒋公奕には欠けている。危機は潜在している間に排除すべきものだった。

 ―――この、只管に乱のみを想う男は災いを呼ぶだけだ。

 腰に佩いた太刀に手を掛けた気配を疾うに察しているだろうに、甘興霸は変わらずだらりと座り込んでいた。



 ひゅう、と吐かれる息は既に白い。
 水都ゆえの湿った空気が重く沈み始めた頃、再び掻き回すかのように、厩舎から怒号が響いた。板が木っ端に砕け散り、枯芝が舞い上がると巨岩が転がるように一頭の黒馬が荒れ狂ったように駆け出した。
 彼の厩舎では最も猛々しい雄の種馬だが、只の発情であれば厩丁が制することは難しくはない。では、馬が狂することはあるのだろうか。

「種を抜かれるに厭いたのさ。」

 見透かすように甘興霸は呟いた。





 土埃を上げ、焦点の合わない目で首を振り回しながらも、黒い巨体は楓樹の木に向かって直進して来た。木陰に立つ二人の小癪な人間を蹴散らそうとするかのように嘶き、前足を振り上げる。

 それまで、陰鬱な空気を纏い、周りにいっさいの関心を払っていなかった甘興霸が不意に立ち上がると、凝縮された気を暴発させる。
 黒馬は挑戦的な忌々しい殺気を感じ取ったのか、立ち上がった上体を左へ捻り蹄を叩き付けた。甘興霸は歳に似合わぬ身軽さで一歩後ろに引き躱すと、制御から解き放たれた黒の体躯が再び蹄を蹴り上げる前に、左前脚の脇へ躯を縮めて滑り込む。

 馬の脚を折る気はないらしい。

 一瞬の動きで敵手を見失った黒馬も、横に附いた眼は獲物を逃すはずもない。しかし、甘興霸は己の骸筋を弓矢とするように跳躍すると、右手で無造作に長く伸びた紫紺の鬣を鷲掴み、悲鳴を挙げる毛根も不知とばかりに、鞍も置かれていない裸馬の背に跨った。

 吐き出される水の結晶の呼気と共に、黒馬の口から憤怒に満ちた嘶きが揺るがせる。

 馬上の人物は、未だ無表情のままだった。鬣を頸が反れるまで引き、馬腹を蹴り飛ばす行為に容赦はない。
 猛り目を剥きながら反抗を繰返す黒馬も、その痛みに耐えかね、僅かなりとも進路を弓箭の的へと旋回していく。そうして初めて甘興霸は眼を微かに細めた。



 空いた左手は、自身の腰に回り、弓を掴み取る。



 そして。
 悍馬の抑え付けられた忿恚を解放するように。
 子孫を殖やす事だけを強要され続けた怨毒を放出するように。



 人間の軛から、自慢の紫紺の鬣を奪い返した瞬間、奔流となり狂ったように翔け始める。



 それを、振り落とされもせず、甘興霸は冷たい眼で見下しながら、やおら自由にした右手で矢を取り弓に番えた。




 き、き。

 きり、きりりりりりり。






 矢頃は見極めてはいまい。番えられる矢は、力を溜める間も、飛ぶ先を知る間もなく、次々と放たれていく。
 荒れ狂う馬の風雨に任せるままに、気紛れに放たれる矢の軌跡は、しかし、もう使い物にならない弩の的の中央を寸分の狂いなく射止めて行く。

 人馬一体、神技、無心、何とでも云い得る。
 だが、蒋公奕にはどれも違和感を感じさせる言葉だった。
 あれは、場を得ることのない獣同士の狂宴なのだ。





 甘興霸の矢も尽き、調錬場は十二分に駆け回っただろうに、黒馬の猛暴は鎮まることはなかった。土塀を蹴破ろうとした一瞬に、頸椎に白刃が一閃する。
 黒馬の鬣を左手で掴み、その背からひらりと飛び降りる。頸と躯を両断されたまま微動だにしなかった黒馬の体躯は、甘興霸の動きに合わせてゆっくり、ゆっくりと崩れ落ちた。

 砂埃も枯葉もさして舞い上がることもなく、血潮だけが赤く噴き上げ、破砕しようとした土塀と地に吸われる頃には劣化したように黒々と染まっていく。
 後生大事に抱えていたかのような馬の頸も、我に返り関心が失せたのか、人血でない血臭に飽いたのか、直ぐに投げ捨てた。それでも甘興霸の半身以上を赤黒く塗り替えるには充分な時間であったようだ。


「下らんな。――構えねば放てぬ矢の調錬など。」



「相手を見極めるのは将の為す事であって、俺等のような手足の仕事じゃあない。」


 沸騰した血を浴びながら、猶も凍えた狼の眼を蒋公奕に向けてきた。



 き。き。き。




「眼も耳も、全て将に預けてある。見定め、弓を引絞る必要がどこにある?」



 『―――あえてこれを鋭くするは、長く保つべからず。』




「曹公が再び長江まで出張ってくる心算らしい。」
「は、暇な爺さんだな。」
「……感謝することだ。」
「感謝?ああ、そうだな。付け届けでもしたいくらいだ。」

 くっ、と喉の奥でひとつ嗤う。
 甘興霸の顔面を濡らした血飛沫は、表面が乾き始めていた。無造作に擦れば、乾いた層の下からぬらりと粘度を失っていない液体が流れ落ちる。奇妙な縞状の深緋の妙も、武骨な甘興霸の手によって拭われる。だが、その手もまた、緋色に染まっているのだ。

「俺の居るべき場を、楽しみに待っているぞ。」
「いいだろう、取って置きの危地を呉れてやる。」

 あまり面白味のない蒋公奕の言い回しに、甘興霸は再び喉の奥を鳴らす。黒い血痕がこびり付いた乱れ髪に混ざる白糸も、長年陽に灼かれ麻のように褪せていた。
 瞬きほどの前の刻、背を預けていた楓樹の幹を倒れよとばかりに蹴り上げる。それは、一時的な昂揚を覚ます為の荒療治だったのだろうか。ここ数日の冷え込みの為に鮮紅へと変化した葉が吹雪のように舞い落ちる。

 人為に因って刈られた紅葉は、戦塵に吹き荒れる血の雨を思わせた。何れも、道理というものがあれば全う出来ただろうに。

 この兇器が、長く保てぬ刃と言うならば、摩滅するまで酷使すべきなのだろうか。
 蒋公奕は眉を顰めながら、昏い緋色を落とすことなく立ち去る兇器の背を眺めていた。








 不快な夢も、今夜は訪れまい。
 この狂癖とやらも、暫くは鳴りを潜めよう。
 兇器は只、斬る為だけに創られたのだ。

 錆びて朽ちるより、折られる方が本望だ。



 き、ききき、きりり、りりりりり。




 矢玉は対岸へ飛ぶしかないのだ―――。










 濡須前夜。甘興霸を書こう(描こう)となると、最大のネックはこの『殺人癖』でしょうね。伝を読む限り、やんちゃしていた時代にはその癖はなかったように思うのですが…。元々持っていたものが顕在化したのが呉に入ってからということでしょうか。まさに徒花という感じです。
 濡須の戦いの時は、呂子明と共に蒋公奕も総指揮に当ったんだよーと地味に主張。笑。
 そういえば、山越族というのは、戦国時代の越国の後裔という理解をしているのですが、合っているのでしょうか…??あれ、違う?(07.08.28)