けのばんに。




「似合わんなァ。」

 強張った面持ちで遠く翻る軍旗の彩りを見つめていると、強面の将が声をかけ、隣に並んだ。
 背丈はほぼ変わりないが、隆々とした筋骨に明らかな差があった。

 儒者とて古には、六芸に秀でることが理想とされていた以上、荀文若は人並みには騎と射はこなせる自負はあった。
 しかし。

「似合わんよ、軍師殿。」

 再び武骨の将が繰り返した。
 兵や官吏たちが恐懼する巌のような面だが、近くで見ると眼光は意外と穏やかな光を湛えている。口調も揶揄する響きはない。
 荀文若は、ふと、主が保護者が居ては悪さも出来ぬよと零していたことを思い出した。確かに、あまりこの将を困らせてはならない気にさせられる。

 しかし、厳しい外見と穏やかな内面を持つこの夏侯元譲が自らの城を捨てて急行しなければ、城内の動揺をこれほど鮮やかに鎮圧することは不可能だったろう。
 明け方、斬られた者達の断末魔によって、城は迷妄から醒めたようなものだ。夢醒めには良くはないが、お互いの賭けの末を自らの身で贖ったのだと思うしかない。いずれ、自分も吉凶知れぬ賭けの末を贖うことになるのだから。



 賭けの第一幕には勝った。
 しかし、第二幕はどう出るか。駒を振り出すのは自分か、彼奴か。



 選び取った主すら、我々は駒と見立てて策を帷幕に、そして対陣のなか張り巡らせる。

 本来なら同じ主を駒として、左右に侍りながら陰湿な闘争を繰り広げ続けたであろう好敵手は、今や蒙塵の彼方にある軍旗の下に、無双の主を駒として蜘蛛となって謀略の糸を吐き続けているのだろう。
 不快だという感情はない。闘争が白日の下に晒されただけだ。最早葬り去るのに手段を問う必要がないという解放感だけがあった。

 ――解放感?

 或いは、我が主から解放されたかったのだろうか。
 それとも、我が主は、駒と操るには余りに奔放に過ぎるのか。
 謀臣は鎖の先を常に持っていると思っているものだ、だが、我が主はどうなのか。



 知らず、腰に下げている剣を握り締めていた。
 荀文若は、その剣の重さに安心感を覚え、同時に、柄の冷たさに震撼した。鉄拵えの刃の部分はどれ程に冷たいのか、それが温い人血を飽くことなく吸い込む。
 今、荀文若が身に着けているのは、武官の鎧だった。総てのものから総てを守る、そのような不可能ごとを頭脳の隅で理解しながら、気負うように、先陣を駆ける心算で居るかのような重々しい姿。
 鎧自体の重さは負担に感じてはいなかった。思いの外、剣を振るうこともできる。

 それでも。
 夏侯元譲は、今にも剣を抜きかねない殺気の漲った荀文若を静めるように、柄頭に手を置いた。

「軍師殿は、人を小石のように動かすことに長けてはいても、人を藁のように斬ることはできぬだろう。」
「……何れにしろ、とんだ人でなしですね。」
「その通りだ。」

 二人で顔を見合わせると、どちらが先ということも無く吹き出して、笑いが止まらなくなった。
 一方は普段の陰気な顔立ちからは考えられぬような明るい笑顔を。もう一方は鬼神のような相好を崩して大きな口を開けながら。
 木霊するような笑声は、戦場の凄惨さとも、不釣合いなほどの児戯めいたものとも聞こえた。

 文と武。二つの道に長けることは可能であろうが、極めることは叶わぬのかも知れぬ。

 笑いを収めると、荀文若は目を閉じ、初めて昇る日の熱を瞼に感じた。
 剣の柄から固まった指をひとつひとつ外し、下げ紐を解いた。両手で支える剣の重さは、試しに振るった時より錘のように腕に堪えた。

「これを、お預けします。」

 自分には不要のものだと、やっと決心がついた。軍師という生き物は、策を為す以上、策の結果については誰かに自らの身を任せるしかない。策を動かす者は自分ではないことが、自らの身を贖うということだ。

「随分と重いものを任されたもンだな。」

 夏侯元譲は軽々と荀文若から剣を受け取った。その重みを知りながら飄然と胸の奥に収めた武の人間に、荀文若は再び微笑んだ。



 暁は払われ試練を迎えながらも、荀文若は己の為すべき道が鏡に映るようにはっきりと視えていた。
 たとえ再び永い夜を迎えようと、迷うことはないと。












 曹孟徳の足場を守り抜いた折のエピソードですが…なんだか消化不良のような。(問題はそこではなくて、語彙力の少なさが致命的過ぎる…。)
 あの、ほんとみなとにとって荀文若が捉えがたくてですね、夏侯元譲がいれば何とか分かるかと思ったら、ますます混乱してしまいました。このお留守番コンビは気が合っていたのでしょうか、そんなイメージがあるのですが妄想ですかね。(明らかに。)(07.01.08)