とやすみ。




 就寝前にふらりと陣内を散策するのが、費文偉のなんとない習慣となっている。 見回りといった堅苦しいことではなく、成都にいてはなかなか見られぬ満天の星空を楽しんでいるだけだ。
 一献傾けたいところだが、それは対陣中ということもあり控えねばならぬのは残念至極。

 篝火のはぜる音と、不寝番の微かな音以外、陣内は寝静まっているようだった。
 まだ残暑の残るこの時期、日中はひたすらに屯田と調錬に費やされるのだ、泥のように眠りこけるのも無理はなかった。
 事務方も暇かというとそうでもない。戦がなければこのような狭い所に押し込められて入る健児たちが大人しくしているはずもなく。大小諍いは頻発し、西の陣、東の見張り台とまさに席を暖める暇もない。それに伴い決済書類も山積する。
 高官同士の不仲も、それを助長している気がしないでもないが…。

 具体的な当事者達の顔を思い浮かべ、費文偉はやれやれと息を付いた。



 自分の割り当てられている幕舎に戻ると、入口を塞ぐように直立不動の背中があった。
 平均的な武将から見れば、心持ち小柄な姿は費文偉の記憶に間違いがなければ、丞相の幕舎に護衛として詰めているはずだった。

「姜将軍?いかがされた?」

 声を掛けられ、振り返りはしたものの、一言も発さない。そして両腕一杯に抱えられた書簡の類いに目を落とす。
 費文偉も溜息を付いて、二人して外に突っ立っているわけにもいかず、中へと誘った。



 舎内に入ると、執務机となっている所に姜伯約は手にしていた書簡の山を無造作に積み上げた。
 幕舎の主の性格の豪放さの割に、几帳面に整理された一角が、それで無残にも崩壊してしまった。これでその一角の書類は既決も未決も区別が付かない。
 費文偉はそれを眺めやり苦笑しながら深更の招かざる客に問い掛けた。

「一体何がありましたか?」

 舎内の極度に抑えられた灯の中でも、姜伯約の射込むような鋭い眼光は炯々と明るさを失わない。 夜行性の獣のようだ、と費文偉はちらと思った。
 そして、その獰猛な獣に対した時も費文偉は常からの自己を失う事なく、泰然と対応できる数少ない文官である。 その所為か、何気なく姜伯約が相談を持ち掛けて来る事が多かった。

「丞相の仕事の一部です。」

 声に高低はなかったが、抑え込まれた溶岩の塊が有ることは十分に察せられた。
 費文偉は首を軽く回すと、書簡の一つを手に取りざっと目を通した。

「…仮にも、一国を預かる宰相の手を煩わせる事案ではありませんな。」

 費文偉は遠慮仮借のない断言をした。杖打の刑の判決文の類は、この戦に従軍している官僚なら誰でも書ける。 そして恐らくは、姜伯約が今最も求めている答えの筈だ。しかし諸葛孔明の宿業ともいえる悪癖を改めさせる術もない。

 それを知らぬ姜伯約でもないだろうに。
 姜伯約の忍耐が限界に達したということだろう。
 だが、憤怒に任せて仕事の一部を奪ったはよいが、如何に文武両道で鳴らしているとはいえ、業務の総てに精通している訳でもない。
 途方に暮れて、費文偉の幕舎の前で佇んでいたのだろう。



「…どうして丞相は。」
「どうにもならぬ気質というものがあるのでしょう。細心さの裏返し…。」
「どうして我らを、信じて下さらぬ…。」
「では……。」

「では姜将軍、貴方は如何ですかな。」

 費文偉の言葉に、麒麟児と云われたかの優秀な頭脳は何のことかと、理解ができなかった。

「そういうことですよ。英傑と云われる人物には、往々にそれが欠けているのです。丞相然り、将軍然り。」

 翻弄するだけして、費文偉は、姜伯約にその答えを与えなかった。

「将軍の持ってこられた決済文書については、明日、該当部署に回します。職責の分担については、私の方からも丞相に今一度申し上げてみましょう。将軍が来られたこと、お告げしますがその方が効果もあるでしょうし、ご了承願えますかな。」
「………承知しました。」
「では、これからこの中の急ぎの案件だけ、今夜中に私が済ませておきますので、後のことはお任せ下さい。」

 そう言うと、費文偉は崩れた竹簡の中から二、三取り出すと黙々と目を通し始める。姜伯約は暫く何か言いたげな様子だったが、居心地が悪くなったのだろう、邪魔にならぬよう足音を立てることなく幕舎を後にした。

 半刻後、人の気配が目の前から失せていることにやっと気が付き、費文偉は目を上げ苦笑した。

「全く、凡人と異なった能力を天から授かった者は、凡人の見る世界が判らないのだから…。」

 例えば、卑俗な情なり、愚かな行為なり、小事に囚われる迷いなり。ひとの情に疎すぎるのだ、自分の見えているものが他人に見えているとは限らないことが、彼らには理解できない。凡人の理解を越えた世界でしか彼らは生きられない。
 だが凡人は、世界が何者かも、正解がどこにあるのかも知らぬから、道がどこからやって来てどこに向かうのか見えぬから、惑う。人の心が読めぬから、気遣う。足が速くはないから、もうついては行けぬと座り込む。
 それなのに、天とは気紛れだ。凡人も奇人もなにもかも同じ世界に住まわせたのだから。

「それも英傑の試練、かね。難儀なことよ、付き合う凡人には。」

 自身も英傑である自覚を持たぬまま、費文偉は頬杖をついた。さて、明日からどうやって姜将軍から逃げようかと。彼は疑問に思えばなかなかにしつこいところがある。しかし、費文偉も上手く言葉にできぬから、自分で考えろと謎掛けをしたのだ。

 ―――長い夜だ、ゆっくり考えるとしよう。

 彼にしか出来ない余裕の持ち様で、さて、と再び筆を手に取った。

 残暑の中に、冷たい風が混じり始めた。
 この対陣が、この日よりさして長くは続かないことを、費文偉は知らない。











 五丈原ネタです働き過ぎ丞相にヤキモキする側近二人ということで。
 なぜか姜伯約と費文偉だと漫才コンビという思い込みがあるのですが。 この二人に丞相に対する思いの丈を言い合って貰おうと書き始めたのに、姜伯約は無口だし、費文偉は謎々が好きだし 会話が成立しないという重大な問題に気が付き、ぶった切れでお話が終わってすみません…。
 天才はたぶん凡人と感覚が根本的に違うんじゃないかなあ植物で言う何々類がそもそも違う、っていうか…とか考えていたら 妙なお話になってしまいました。(06.09.21)