わだみのそこ。




 幸甚至哉 歌以詠志


 あの賦を詠んだのは、もう十年も前のことだった。

 東の地の尽きる滄海の、呑み込む無言の意志に驚嘆したこともまた。







 曹孟徳は早馬で知らされた訃報に長息した。

 寿春にて、病を理由に呼び寄せられた彼の嗣子の筆致も嫌味なほど乱れはない。書かれていたのは、荀丞相軍事薨、於寿春と。




 秋風蕭瑟 ――秋風は物寂しく、
 洪波踊起 ――濤は高く躍り上がる。


 俺の息子と同じ冷徹さだろうか。

 茫洋と次世代の風の冷たさに想いを馳せ、顎髭に手をやり下らない空想に心を囚われたことの不快さをやり過ごす。



 ――丞相の吟われた蒼く昏い波濤を見とうございますなあ。



 そう呟いてゆるゆると笑っていたのは何時だった。
 政務の合間の雑談か、それとも尚書令の地位から落として呼び寄せた軍営でのどこか刺々しい空気の中か。




 日月之行 ――天を廻る日月も、
 若出其中 ――海中から現れるように。


 俺も奴も、お互いの変質を見抜けなかったのは、同罪と云うべきか、滑稽と云うべきか?
 敵手の仮面や策謀などは、いや身中の虫さえも炙り出すのは児戯に等しかったというのにな。
 裏切ったのは、俺なのかお前なのか。天地の理のように答えがはっきりしていれば良かったろうに。




 星漢燦爛 ――艶やかな天の川も、
 若出其裏 ――海原より現れる。





 曹孟徳に自嘲の癖はない。無意味なことをする余地は、彼の頭脳にも私情にも一切なかった。

 否、僅かばかりの隙間があるために、曹孟徳は眼前の戦略に集中力を欠き、終わったことに思いを巡らせ続けている。



 詩賦に詠めるような人間ではない。
 曹孟徳は戦場を想い、刹那の命を嘆きまた愛しさを募らせ、塵埃に塗れながら己の足で立った大地から肚の奥から沸き上がる慨嘆を、低く地鳴りの如く詠い上げる術は知っている。
 だが、喜怒哀楽を謙遜の仮面の下に沈め漣も起こさない目の色のまま、独り、冥闇に去っていった人間の何を詠めというのか。



 荀文若に代わる人間を寄越せという上奏文も、ごく個人的な感傷の為に、事務的な文面しか寄越さなかった彼の嗣子に送ろうとした書状も、結局手付かずのままだった。





『丞相は、何処まで手を延べることをお望みになりますか。』
『夜空に架る星晨を掴めるならば、悪くはないな。』

 軽く受け流して、自分は笑ったのだ。

『空に手を延べ続け、天に手が届いた時には、代償として男の体は長く細く影すら地面に映らなく為る程になっていた、と。』
『初めて聞いた話だな。穎川にはそのような童謡でもあるのか。』
『今、私が創った即興唄ですよ。お気に召しましたか。』

 対する荀文若はうっすらと微笑み、―――あの会話は彼の病床だった。




 水何澹澹 ――水はどこまでも、ゆらりゆらりと揺れ……。

 遠回しのようでいて、露骨なまでの諫止。一体、荀文若は何故それほど自分が足場を固め更に階梯を昇ることに焦燥を見せるのか、曹孟徳には理解が出来なかった。



 宮廷の虚構が見えない人間ではなかった。そうでなければ、長年に渡り尚書を統轄などさせなかった。
 それとも、もっと早く潰せば良かったのか、四百年の生ける屍を。至尊の冕を俺が手にすればお前は満足だったのか。

 全ては遅すぎたと言いたかったのか。





 東臨碣石 ――遥か東方の碣石より、
 以観滄海 ――この青い大海原を見渡している。

 海鳴りが聞こえる。
 溢れようともがくようにその巨大な躯をくねらせ、時に立ちはだかる岩礁に砕かれながら猶、喪われることはなく。





 結局、荀文若は孫家に対すべき策を曹孟徳に開襟することなく、先に海へと逝ってしまった。

 ………何も、遺さず。

 そこまで想いを巡らせ、ふと、訃報を告げた書簡に再び目を落とした。

 嫌味なほど、乱れのない整然とした。
 ただ、払いに僅かな癖がある。真横ではなく、何故か錘を持って沈むように下へと流す独特の文字。それは。






 水何澹澹 ――水はどこまでも、ゆらりゆらりと揺れ、
 山島竦峙 ――海原から突き出した山や島は高く高く聳え立つ。

 それは。他ならぬ、荀文若の手に依って書かれた、彼自身の訃報が絶筆となったのか。







 樹木叢生 ――山や島には木々が群がり、
 百草豊茂 ――数多の草が豊かに茂っている。
 秋風蕭瑟 ――秋風は物寂しく、
 洪波踊起 ――濤は高く躍り上がり………。


 手にした書簡を取り落としたことすら、如何でも良かった。生殺与奪の権すら、荀文若は曹孟徳にも天命にも委ねはしなかった。
 曹孟徳は最早何の躊躇いも無く、その短い報を焼き捨て、顧みることをしなかった。

 激情の実力者の未練を砕く方法を、かの懐刀は良く知っていたのかもしれない。




 幸甚至哉 歌以詠志












 結局、死因は何、という問題から全力で逃げました。曹孟徳視点の荀文若なら少しはイメージ湧くかと思いましたが無理でした。荀文若本人の周りでぐるぐるループしています。
 引用している漢詩は『歩出夏門行』のうちの「観滄海」です。作者は曹孟徳。袁氏の残党及び烏丸征討の後、山海関地方まで兵を進めたときの詩だそうです。あ、順番はばらっばらにしてしまいました。すみません。
 あと、荀文若の言っている、影も映らなくなった男の話、ですが、元ネタはみなとが小学生の時に聞かされた怪談です。(そんなものをネタに持ってくるな。)さすがに少しアレンジしました。手を伸ばせば伸ばすほど、自分が消えていくというのが皇帝への道のような気がします。(07.03.08)