吾彦字士則 呉郡呉人也
出自寒微 有文武才幹
身長八尺 手格猛獣 旅力絶群
吾士則は酒は充分嗜む方ではあったが、時と場が異なれば、自ずと不得手の際たるものと化す。
幾分、いたたまれない心持ちで注がれた杯に口を付けたが、味覚は芳醇さを感知しなかった。
―――この空気に馴染むことも、お役目のひとつと思えば………。
士人の酒宴に招じられる未体験に八尺の体躯を縮こませている部下を、宴の主催である陸幼節が一瞥した。
抗奇其勇略 将抜用之 患衆情不允 乃会諸将
(陸幼節は吾士則の勇略をもって将に抜擢しようとするも、衆人は納得せず、諸将に会させることにした。)
寒門の出とはいえ、学は一通り済ませ、礼儀に不知と云う訳でもなかろうに。呑まれたかと一瞬よぎった考えも、彼の発する不機嫌さから、士人独特の文法が気に食わぬかと苦笑する。
―――今からそう固くなられては困るのだが。
趣向をひとつ用意している身としては、役者が場を白けさせるのは勘弁願いたいところだった。
幾度杯が目の前を往来したのか、数える気は端からない。
用を足そうと座を外し回廊へ出ると、吾士則は酒精で麻痺した嗅覚を取り戻すように大きく息を吐いた。白く染まった呼気が、夜も更けて来たことを示していた。月魄も見当たらぬ寒夜。
戸を一つ隔てた喧騒から離れ、二歩も行かぬ間に慣れすぎた鉄錆の臭気が鼻孔を刺す。
―――気のせいか。
微かすぎる臭気を、幾分温い風があっという間に消し飛ばす。出処は、闇夜に目の利く吾士則をもってしても判別は叶わなかった。
一度発した殺気を上官に気取られぬよう、慎重に再び座へ戻れば、宴もたけなわといった有り様で中央では剣舞が披露されていた。微酔いに乱れた周囲に溶け込まぬ鈍色の青銅が弧を描く。
「酒席にそぐわぬ表情をしておるな、士則。」
自分ではどうにか取り繕ったつもりだったが、陸幼節の醒めた瞳は見落としはしなかったらしい。
やや、躊躇いがちに膝を進めると、上官は自分の坐する毛織の方褥に並び座れるよう躯をずらした。吾士則はその厚意を謝しつつ、耳元へ口を寄せる。
言葉が喉から飛び出す間もなかった。
燭台の火がひとつふたつと掻き消えていくと共に黒い影が瘴気のように沸き上がる。優雅に弧を描いていた剣は、己の本来の姿を取り戻したかのように、鋒が鋭さを増した。
武人の宴に紛れ込んだ刺客だ、抵抗があることは折り込み済みだろう。
しかし、何かがおかしい。
耳に届くのは、研ぎ澄まされた刺客のものではない、狂ったように床を打ち付ける刃の音だった。
―――狂疾なのか……?
坐上諸将皆懼而走
(坐していた諸将たちは皆恐れ、為す術がなかった。)
巫術の血の者である可能性が残っている以上、触れることを懼れても致し方のないことだった。
だが、一瞬にして星闇に変じ、更に混乱を助長させたところといい、狂人の為すことにしては手際が鮮やかすぎる。まして、これほどの人間が一度に狂うものなのか?
諸将を混乱させた剣先が不意に館の主人へと向けられる。
吾士則は脳髄の片隅で違和感を抱えながら、躯は正確に反応していた。陸幼節の肩を掴んで己の背後へと回すと、几上の酒肴を腕で薙ぎ払い、疾病に冒された剣を受けようと。
唯彦不動 挙几禦之
(吾士則は動ずることなく、几を以て之を防いだ。)
几に突き立てられた剣を抜こうと足掻いている男の鳩尾に肘を打ち込む。第二撃、第三撃と同じく躱していると、背後に冷静な視線が張り付いているのを嫌でも感じ取れた。
氷塊が臓腑へと滑り落ちる気がした。
密使人陽狂抜刀跳躍而来
(陸幼節は人を使い、狂人を装わせて剣を抜き、跳躍せしめた。)
風顛がそもそも狂言だとしたら。
―――ではあの血の腐臭は何だ。
飛躍した結論に顔を青褪めさせると、腰に手をやり舌打ちをしかける。館へ入るときに寸鉄も身に着けぬようと言い渡され、己の武器は預けていた。
今、武器があるとすれば。
「失礼します!」
振り返り、返事を待つことなく陸幼節の剣をその腰から抜き取った。
上段に構えつつ再び几を楯に躯を反転させ、その勢いのままに、狂人の萎えた切先とは異なる鋭い刺客の刃を受け流しつつ脳天から叩き斬る。断末魔を上げることもなく絶命した躯から剣を抜く間もなく、風切音が耳元で鳴る。
吾士則は一度柄から手を外すと、几を第二の人間に投げ付けた。
不意を突かれ仰け反る間に、吾士則は再び剣に手を掛け剣を抜くと、その噴出する返り血を浴びながら、体勢の整わない躯を斬り捨てた。
―――まだ、いる。
腐臭の元凶があと一人いる筈だった。
澱んだ黒い瘴気の中に一つ、底冷えた色をした影があった。こちらが飛び出すまでもなく、失敗を悟った自棄の殺気が頬を打つ。
対する吾士則は肩から力を一旦抜くと、腕をだらりと下ろした。勢い付いた刺客が一息で間を詰める。
斬。
自らの間合いを測るように、吾士則は横薙ぎに剣を払った。構えを解いたのは急所を見定める為に過ぎなかった。
刃の軌跡を辿るように、深紅の血潮が弧を描いた。
「―――見事、だ。」
顔色一つ変えず坐していた陸幼節の声で、吾士則は我に返った。
回廊から慌しい気配が感じられる。異状を察した家人達が右往左往しているのか、それとも事前に陸幼節に言い含められていた家人達がこの広間の現状を回復しようとしているのか。恐らくは後者であろう。
いつの間にか瘴気は消え失せ、残されたのは足元に三体の遺骸と、飛び散った酒肴に零れた酒が床面に大きく染みを作っていることだけだった。室内の明かりはまだ戻らず暗いままだったが、士人達の呆然とした雰囲気は何となく感じ取れる。
「もう剣は不要であろう。」
自身の持ち物を返してもらおう、というように陸幼節は右手を延べた。
「陸将軍。」
風諌とは無縁だった。吾士則は直截な言葉しか吐くことを知らない。必死で言葉を探した。士人達もいる空間で狂言でしたという言葉は出すわけにはいかない。
まして、狂言が洩れて本物の刺客が紛れ込んでいたなどと。
「このような、――な、慣れぬことはせぬ方が宜しいかと。」
「慣れぬこと?」
吾士則の滅多にない奥歯に物を挟んだ物言いに、陸幼節は暫し眉を顰め、ああ、と納得した。
この実直な青年は、自分を随分と善なる者だと考えているらしいことに思い当たる。
もし、最近常に監視する様な視線を感じていたと言ったらどんな顔をするだろうか。
「この者達の身元を洗いますか。」
「放っておけ。」
陸幼節の言葉が厳しさを増す。水際で止めることができれば良いのだ、この骸を縛る縄の先に何者がいるか、知る必要など。それは臆病ではなく最小限の保身だった。
まだ泥濘の深さを知ることのない吾士則は、不明なことを残すことに僅かな不満を感じたが、上官の表情の険しさに頷くしかなかった。
頷き、視線を戻すと陸幼節の右手が所在無げに延ばされていることに気が付く。はたと己の血にまみれた右手に握られているものを思い出し、黒く乾きかけている刀身の血糊と脂を上衣の裾で擦り取る。
「あ、有難うございました。」
「…………諾、と応えた覚えはないのだがな。」
「はっ……え。」
「折角の饗応の肴も台無しになってしまったな。」
それまで、その体躯に相応しい力を漲らせていた吾士則の気が小さくなる。何もそこまで心胆を冷やす必要はないのだが、上官の酒肴を全てひっくり返したのは自分だという自覚はある。
「案ずる事はない、相応の働きで返して貰おう。」
陸幼節は笑みを深めながら、刃毀れを気にも留めず、剣を鞘に収めた。
衆服其勇 乃擢用焉 稍遷建平太守――
(諸将は其の勇を認め、将に抜擢されることとなった。そして、後に建平太守となる――。)
了
初めはマンガにでもしようかなあと考えていたエピソードです。お笑いポイントは陸幼節ではないかと。やりすぎです。
ひねくれ者ばかりの末期時代で、珍しくすれていない感じの吾士則は、現在、羅令則と共に赤丸急上昇中です。国境最前線に弱いのかもしれません。(07.12.12)