くもくれ。




「何を見ておいでです。《 
「月を。《 
「吾には雲しか見えませぬ。《 
「ふふ、お前らしい。《

 陸幼節は、物事の裏表を信じようとしない頑なな部下を穏やかに振り返る。
 空には重々しい灰色の雲が垂れ込めており、星辰の影すら見えることは叶わなかった。光は無く、遠く雷鳴が轟き始めている。雨が近いのかもしれない。雲の流れは速かった。

「雲は沸き上がっているが、天の運行に変わりはない。暦では今宵は満月。透かせば見えるものもあろう。《
「吾は、見えるものしか信じません。《
「では、今日は月が消え失せたと?《
「それは、《

「幻を探すようなことを、吾は好みませぬ。《

 あるいは、吾士則が正しいのかもしれなかった。目に映るものを虚心に眺める眼を持つならば、彼は、殊更、裏を読む必要があろうか。
 裏に真実があるとは限らない。
 裏には裏の流儀があり、その奥は果てが無い。堕ち込んだが最後、這い上がることもできずに、疑心暗鬼に背後を任せ謀を重ねていく。重ねるごとに、その迷宮は複雑になるばかり。

 表象を在るがままに受け入れたものが、最も事実に近づき得るのかもしれぬ。
 事実は至って単純なものなのだ。ただ、周囲の人間の思惑がそれを歪めさせ、糸は縺れ、自縛に陥るとは何と云う笑劇なのだろうか。

 見えぬものへの憧憬は、この混迷の時代甚だしく、己を神仙の如く振舞う者が後を絶たなかった。
 しかし、彼らのいう神仙の雲気とやらで、目は霞み、外に居ながら内に居るかのような思考から外れることが無いとすれば何と滑稽な様なのか。形ばかりを真似することならば、童子にも出来よう。そして、得てして童子は事実を見たままに語るのだ。

「お前の眼は、確かだな。《

 謎かけのような陸幼節のいたずらっぽい笑みに、吾士則はただただ困惑するばかりだった。


嘒彼小星――かすかなる かの ちいさき ほしは
三五在東――みつ いつつ ひがしに あり
粛粛宵征――しゅくしゅくとして よるを いき
夙夜在公――あさな よなに おおやけに あり
寔命上同――まことに めいの おなじ からざる



 その日を生きることが出来れば良い。日々の糧に感謝することがどれだけ貴重なのか、最早自分は見失って久しい。だからこそ、雲隠れの月に憧れるのだろう。
 吾士則は、日々の己を見失わぬ。無為とは、このような姿を云うのではないのか。徒に古書を振り回す者のなかに、無為の何たるかを、その身で示した者があっただろうか。

 素朴な詩経を口ずさむ。
 高く、低く、陸幼節の声は深更の静寂に流れ、そして注ぎ始めた雨水の中へと埋没していった。












 気楽なコネタのつもりで書いていたのですが、そういえば、陸幼節って神仙思想とか信じてなさそうだなあと思い、ちょっと頑張ったつもりが玉砕しました。古代中国の上死思想って難しい……。作中の詩は詩経・召南の『小星』からです。(09.05.16)