のしろ。




 道の道と可きは、常の道に非ず。
 名の名と可きは、常の名に非ず。




 九天は彩を失い、照り輝き恵みを垂れる日の光は褪せている。
 視界に、ぶつり、ぶつりと黒い粒状のものが飛び退り、もう幾度目になるか、黄天より運ばれる砂礫に噎せた。

「おう、蘭石!この嵐の中だと影しか見えないから随分と老けて見えるなあ。『家に於いて杖』をつくか?それとも鳩杖が良いか!」
「喧しい悪童が!貴様こそ冠を着けるには早かったと見えるな!」

 季節柄、誰が好き好んで外出するのかという激しい黄砂の中、身体中の穴から入り込む沙粒に苦々しい思いを傅蘭石は吐き捨てた。
 一方、この不快な『散歩』を強要した当の本人――荀奉倩は、北辺から猛然と襲い掛かるこの黄砂の群行を、晩秋の初雪をを愛でるかのように飄然と横断していた。






 俗人昭昭、
 我独昏昏。






「何もこんな目も開けては居れん日に来んでも良かろう……。」

 一旬目の宮仕えを終えて、私邸にて肩の荷を降ろしていた傅蘭石の眼前には、裏庭に案内されている砂に塗れた荀奉倩の、人を食った笑顔があった。何故居室に通さぬかと恐縮する家宰を叱り付けたものの、この士大夫に有るまじき体裁を見れば納得がいこうと言うものだ。

「偉風軽んずるべからず、と言いたげだなあ。我は足るを知る――友を訪ねるに繁礼は必要かな?それとも、」



 唖となり盲となり聾とならねば官界で生き長らえること叶わずと、ようよう悟ったか?



 氷塊の如き呟きは、傅蘭石の耳に届くには、風伯の叫び声が邪魔だったようだ。怪訝な顔付きの傅蘭石を上から下まで眺めると。

「ふうん、沐浴は未だだったようだな。なら更に汚れても問題ないだろう、蘭石、付き合え!」






 俗人察察、
 我独悶悶。






 京洛の城門を出、暫く城外に広がる耕地の間を縫って歩くと比較的大きな用水路があるところへ辿り着いた。
 城壁のような外から身を守るための何物も存在しないだだっ広い耕地の中では、洛中で感じていたよりも遥かに黄砂の威力が堪えた。しかし、此処まで来てやっと荀奉倩は満足したのか、足を止め、砂の積もった地面にしゃがみ込むと何やら始め出したが、傅蘭石は傍らの桑の木の袂に難を避け、漸く一息吐いた。

 口中に溜まった砂を吐くと、井戸から汲まれた冷水が無性に恋しくなったのは事実。だがお互い水の手持ちはない。しかし用水路の水は当る確率が高いだろう。
 やれやれ、と溜息一つに止めるしかなかった。大体が徒歩とは如何なることだ、馬を出そうとしたら、荀奉倩曰く、「この砂嵐の中、馬が気の毒だろう。」と明らかに奇妙な言に何となしに従ったのが失敗だったと考え出せれば限がない。



 付き合いは長いとは言えないが、荀奉倩の奔放さは時に狂疾と紙一重であるのが常より傅蘭石の気に掛かっていた。

 ―――子等は世に出れば我より功名で勝ろうが、我に識見では及ぶまいよ!

 不敵に笑いながら、傅蘭石と不仲であった夏侯太初と同列に評された時は、不快感を胸の底に押し込めるのに必死であったが。今となってはあれは無邪気だったのではないかとも、それとも荀氏の置かれた立場への諦念であったのかとも判断が朧になっていた。
 そして、低い地位に甘んじながらも官吏となった哥達と異なり、一人、遊侠の輩とも隠者とも区別の付かぬ道を選んだ。
 妙なる山河へと隠れ切れなかった彼の目に、この魏都がどう映っているのかは定かではない。

 ―――『我より栄達するであろうが』
 ―――あたら才有る者が。才に溺れるでもなく、それでも脳髄に刻まれた学を棄つること叶わず、只、憂いを残したか。

 老荘の一篇がふと浮び、否、と泡沫と化さしめた。






 衆人皆以うる有、
 我独頑にして鄙。






 僅かに風が衰えたところで、やっと傅蘭石は現在の荀奉倩に眼を遣った。
 多少の距離がある為か、目を凝らしてなんとかその輪郭を掴んだ程度ではあったが。

 彼は、砂を両手で掬い上げては、指先から滑り落とすことを繰返していた。

 無垢な幼児のように只管、砂を積み上げ、裾野拡がるなだらかな円錐の山を形取る。それを、荀奉倩は山と言うのか、それとも城と言うのか。
 飽かずに繰返される行為だが、両手で掬い上げるその砂の量の少なさに驚く。大人の手で模る器は斯様に小さいのかと。そして、その手から無数の砂が零れているのだ。





 まるで、営々とした人の営みを、月旦で囁かれる巷間の人材の品定めを嘲笑うかのように。
 謹厳、清流、度量、数え上げれば限がない衣の重さを支える器は、小さく、しかも手にした地位を保つことも出来ない。

 沙粒すら全て掬い取れぬ吾が手は、何を為す者ぞ。





 視線に気が付いたのか、荀奉倩が振り返った。
 砂埃を巻き上げていた風の勢いは随分と鎮まり、表情もはっきりと見える。

 荀奉倩はふふ、と感情を気取らせぬ曖昧な笑みを浮かべると、両手に砂を掬い、壊れ物を扱うかのようにゆっくりと立ち上がった。

 それで、も、砂は、
 指の隙間から、こ、ぼれ。

 器を模った掌はゆっくりと縦になると、
 底に大きな穴が、あなが、あき。
 砂塵は、瀧、とな、り、

 落 ・ ち ・ た。

「違うぞ、蘭石、元から無かったんだ。掌より小さい人の器のように、そんなものは、何も!」

 や、めろ。
 次に荀奉倩がしようとしていることに気が付き、傅蘭石は必死で駆け寄ろうとしたが、これまでの砂の堆積で思うように足が運べなかった。
 荀奉倩は懐を弄ると、何処で拾ったのか、拳大の石をひとつ手にすると再び背を向けた。その足元に、砂嵐の間中、ずっと彼が築き上げた『もの』があった。





 (おとはなく。)
 (なもなく、みちもなく。)



 ゆっくり握り締めた手指を開いた方が早かったのか。
 否。

 気紛れな風伯の一息で、それは崩し吹き上げられ、荒らされた残骸の上に、荀奉倩の石が最期の天災として落下して行った。

「成程、天地は仁ならず、という訳だ。」

 飛び散った砂が己の足元を埋めることも気に留めず、荀奉倩は嘯いた。






 視れども不見、聴けども不聞、捉うるも不得。
 上は不皓、下は不昧、無物へ復た帰。
 迎うるとも首は不見、随うとも後も不見。






 無が海だとすれば。還るところが海だというなら。
 舞い散っていった砂粒は。

「…………うみ、に、とどくだろうか。」



(無念か、恨みか、甘えか、託した叫びはわからない。)
(届けて欲しいのか、消えてしまえと思っているかも定かではなく。)



 再び、荀奉倩の言葉を掬い取れず、傅蘭石が聞き返したが、返ってきたのは、「『道』は視得るか、届くのかと思って。」という、老子の命題だけだった。そうではなく、と否定する言葉の持ち合わせは無かった。
 閉ざされた扉を敲き続けるしか、傅蘭石には為す術もない。

「帰ろうか、そろそろ閉門の鼓が打たれるだろうから。」

 二人、申し合わせたように振り返ると、縦に突き立っていた石も、沙紋を描く程の微風に支えとなっていた砂を徐々に削られ、小さな砂埃と共に横倒しとなったところだった。

「面白い形だったから持って来たのに。壮重なものは直ぐに倒壊するらしいな。」

 薄く笑うと、もう用はないと振り返ることなく、荀奉倩は歩き出した。
 傅蘭石は何か思うことがあったようだが、現実に立ち返るのは早かった。

 夕暮れはもう、そこまで迫っていたのだから。






 虚を致すこと極、静を守ること篤。
 万物並び作こるも、吾以て復るを観。












 引用は『老子』から、その、都合の良さげなものをつまみ食いしました…。みなとも『道』とか『無為自然』とかよく分かっていません。荀奉倩や魏末晋初の思想を知ろうと思うなら読みましょうな課題図書が一種の哲学書なので泣きたいです。
 いろいろ虚無的なものを放り込んでみましたが、自分でも書いている途中で訳が分からなく。(どうしようもなさすぎる…。)
 荀兄弟は行動の源泉が分かりにくいので、みなとは一応荀文若と考えていますが、どう違いを出すのかが課題かもしれません…。(07.06.02)