薄暗い穀倉の中で、姜伯約は竹簡を広げた。
先程、糧秣を前線に送り出したばかりだった。暫く休息の時を得ることが出来るだろう。そんな時にはこの暗い穴倉に篭って書簡を読むのが常の習慣となりつつあった。
今は独りだった。
母も、妻も子供も消息は知れない。人を遣って調べたいと望んでも、それを口に出すことは憚られる身だった。
この蜀の地に身を預けて日は浅かった。伝がなく途方に暮れていたというところだった。焦っても仕方がない、とはいえ、無聊のまま過ごすには彼はまだ若かった。
見透かされたように丞相府に召し出され、得た職がこの穴倉だった。
気を紛らさせようと職務に没頭すると、却って暇が空いてしまったというのは皮肉な事実だ。手持ち無沙汰に官舎へ戻る気もなく、この倉庫へ持ち出した書物に目を走らせる日々が続く。
それを、蒋公琰に気付かれ、渡されたのが今手にしている書簡――出師表だった。
先帝創業未半而中道崩殂
今天下三分 益州疲弊
此誠危急存亡之秋也
この悲壮感の一方で、自分は唯、長閑だった。
戦塵に身を塗れさせることなく、日々、持ち込まれ運び出される穀類を数える単調な日常。
八方塞がりのまま、鬱屈した感情のやり場もなく、憧憬にも似たように戦場へ思いを馳せる。自分が居るべき場所はここではないと言い聞かせ、功を夢想する。
歪んでいく。
己の歪みに目を背けようにも、この穴倉の暗さは嫌が応にも現実を突きつけてくる。
戦功を上げれば確実に母たちの消息は掴めるだろう……それは最悪の結末しかない。魏朝が処断を下さずにいるほど、能天気ではない。間違いなく贄とされるだろうことは想像がつく。
それでも戦場に出ることを望んでいる自分は、これまで何の為に孝を尽くしてきたのか。確かに、孝を求めることは自分の中で真心から出たものだった。そして、功名を立てることもまた真であり、それらは両立し得たはずなのだ。
何が、間違った。
不毛な問いが頭を何度も過ぎった。
涕しないものはいないと云われるこの表を読んでも、姜伯約には今ひとつ響いてこないのは、己の冷たさだろうかと自問する。
然侍衛之臣不懈於内
忠志之士忘身於外者
蓋追先帝之殊遇
欲報之於陛下也
殊更に教え諭すこの調子は何としたことだろう。今上帝は先帝に、この諸葛孔明を父のように敬えと遺言されたという。それほどに凡愚にも思えなかった。彼の君が凡愚でなければ、諸葛孔明の元で生きることは出来たのだろうか?
寧ろ薄ら寒いものを勘繰るのは所詮自分が外の人間と云うことだろうか。
少なくとも、自分が己の父からこのように諭されて何かを聞く耳を持っていただろうかと考え込む。
しかし、その考えが無駄だとすぐに思い直した。天上人の心を思いやれるほど、自分は豊かな想像力を持たないし、父の記憶もまた朧だった。
或いは、父を無意識に求めた己の感情に蓋をしたかったのかも知れない。
詮の無い思考回路を閉じる。蒋公琰がいつの間にか眼前に立っていた。
「どうかね、表の感想は。」
「はあ、なんとも心を揺さぶられる……」
「嘘をお云いでないよ。君は戸惑ったからこそ夢中になっていたのではないのかね。」
何かを試されたのかと不審の色が過ぎる。
「警戒したね。君はそれでいいのだよ。そんな君がどうやって蜀の人間になっていくのか、私はそれが楽しみなのだから。」
邪魔したね、と再び音も無く蒋公琰は去っていった。姜伯約は余りに謎かけの多いこの国に、暫く腰をすえる理由が出来たようだと独りごちた。
了
倉庫番で鬱屈する姜伯約でした。前線に立つイメージが強いですが、北伐馬鹿になる前ってそんなに戦歴が残ってない気がしたので……。意外と官僚的な仕事が多かったりしたら面白いかなと思ってみたり。
(10.01.03)