べうた。




「――やあ、やっと来たようだ。」

 草叢に包まれ熟睡していた男は、小川のせせらぎと戯れていたかのような鶴の一声に、薄く目を開け遥か遠くの砂塵を認めると、大きく一つ欠伸をし、半身を起こした。












 王士治は益州刺史の職を全うし京師へと馬を走らせていた。
 賊を討ち武勲を挙げる機会にも恵まれ、華々しい凱旋とも見えた。右衛将軍と大司農への栄達も内示されている。

 ――だが、何かが物足りぬ。

 かといって何かを遣り残したのかといえば、後ろ髪を引かれるような未練事に思い当たらない。
 いや、大望はあった、はずだった。「鴻鵠の志」を口にしていたのは他ならぬ己ではなかったか。





『阿童復阿童、』――わらべやわらべ。





 遠く霞んだ益州の山影に目を凝らしても、もうそれは幻で終わったことだった。これからは中央の政界で殿上人の空虚な争闘に右往左往するのだろうかと思うと、その滑稽さに苦笑も漏れると言うものだ。

 慣れない思考を巡らせながらも、手綱は引きも緩めもせず、騎馬の速度が変わることがないのは長年の軍営暮らしの賜物と云うべきか。
 そして、突然騎馬の道を遮るようにふらりと現れた人影に慌てることもなく躱す術を心得ていたことも、軍馬との暮らしが長かった所為だった。但し、その人物が対呉戦線の総指揮を執る人物であったことは、驚愕に値する事実だった。





『銜刀浮渡江。』――かたなくわえて、かわわたりゃ。





「やあ、王……右衛将軍でいいのかな。待ち草臥れたよ、健勝で何より。」

 王士治は老齢を感じさせぬ体捌きで、下馬し拱手を以って晋軍の最高幹部を迎える。
 そもそもこの場に居ること自体が滑稽である羊叔子は、その王士治を品定めするかのように僅かに目を細めて怜悧な光の内にその姿を納めていたが、一呼吸後には普段通りの茫洋とした印象に戻っていた。

「帰洛に急ぎもないだろう、一献、私からも昇格祝いの杯を受けてもらえるかな。」
「喜んで。」
「面白味のない返事だ。」

 振り返りもせず大仰な溜息を吐いた羊叔子の周りを、一羽の鶴が飛び跳ね戯れる。羊叔子も噂に聞く皮衣という軽装だった。








「場所が粗末で心苦しい限りだけどね。」

 案内されて来たのは、細い小川の傍らに放置されていた荒屋だった。筵は恐らく羊叔子が持ち込んだものだろう。
 口先だけは謝罪して見せるが、態度で悪びれていないのは明らか過ぎた。

 羊叔子が王士治のことを随分高く評価していることは人伝に聞いていた。そして、その話は王士治の自尊心を擽らなかったと言えば嘘になる。だが、事実として残ったことは、一度も討呉の最前線にと命じられたことも、乞われたこともなかったというだけだった。


 それを、今更、――今更?


 何かを、今になっても期待している自身の浅ましさに眉間がじり…と蠢いた。

 そんな王士治の内心の動揺も知らぬ気に、羊叔子は纏わり付く鶴の相手をしながら、瓦に二人分の天水を注いで一つを王士治へと押し遣った。
 では、と杯を手に取ろうとすると、羊叔子が少し困った顔をして王士治の目を覗き込んだ。

「王将軍は本当にその杯を手に取るのかい?」
「……どういう意味ですかな。」
「私はね、貴卿が中央で好々爺になる機会を奪う為の、賄賂を渡そうとしているのだよ。」
「これは祝いと伺いました。」
「そうだったね。」
「しかし某の人事はまだ内示に過ぎず、正式には未だ益州刺史の官職のみ。賄賂などと、筋が通らぬのではないですか。」
「そう、本当にこのまま京師に帰還するならね。」





『不畏岸上獣、』――きしべのおには、こわがるな。





「貴卿は、自分がかの渓谷の大地から解放されるには、まだ物足りないと思ってはいないかい。」



 ――肚の奥に押し込んだ野心を、無造作に斯き回すようなことを、今更。





 羊叔子は立ち上がると、小屋の隅に無造作に掛けられていた筵を取り去った。そこには王士治が目を見張るような書簡や地図の類が山積していた。

「驚くことはない。大半は使い物にならないだろうから。蜀の地は難治だな、平定してもう何年になるか。未だ正確な地図も作れない。尤も、地勢上の問題も大きいがね。将軍を批判しているわけではないよ。……ああ、これが一番新しいか。」

 注いだ酒は一口も唇を湿らせることなく、脇へ退けられ、替わって二人の間には詳細な書き込みがされている地図が広げられる。長江の流れに沿って、蜀から呉へ。その道だけが酷く何度も擦られた痕がある。

「唇亡ぶれば即ち、歯寒し……。」

 羊叔子は茫洋とした表情を変えはしなかったが、戦略家としての牙が地図の上に踊る指先に宿っているかの如く、呉の都・建業を押し潰す。

「水都は、よもや水が牙を剥くとは思っておらぬだろう。赤壁然り、合肥然り、西陵然り……呉は常に水と共に在ったのだから。そして、」





「呉は未だ嘗て、一度たりとも腹背に敵を見たことはない。」





『但畏水中龍。』――みずのなかだけ、きをつけな。





「……興味深い、話ですな。」

 生唾を飲み込む音が耳の奥で鳴った。水軍による二正面作戦を眼前の討呉急先鋒の将は提案しているのだ。将である男にとって軍略の話ほど血の躍るものはない、まして天下統一の道となれば尚更。
 だが、己は益州から立ち去る身。この話に何の意義が……。

「此処に、陛下からお預かりしている勅がある。」

 王士治の懊悩を余所に、羊叔子は次々と餌を投げてくる。
 油断を誘った後の余計な思考を許さぬ波状攻撃、退路は甘い蜜によって心理的に断たれている。この帰洛への道すら羊叔子の掛けた蜘蛛の糸の一つではなかったか、とあらぬ考えが擡げてくる始末だ。

 美髯の持主としても知られている眼前の人間は、自身の髯を一撫ですると、懐より絹布の巻物を取り出した。

「益州諸軍事。王将軍、貴卿への辞令だ。尤も、高齢ゆえ職務に耐えないと『私が』判断すれば、この場で勅を裂くことを陛下から許されてもいる。」

 どうする、と問うように覗き込んで来る眼の奥に、呑み込まれそうな深い水面が見える。





 荒れ狂う二匹の水龍が、左右から呉という国土を引き裂くのか。
 南下する水軍と、東上する水軍と。大河を埋め尽くし怒涛の如く押し寄せる艦を瞼に浮かべるのは容易い。

 驚くべきは、この気の迷いとも取られかねない壮大な軍略を実行する為の布石の確実さと云うべきか。
 この擦り切れた地図を見れば判る。そして、勅を取れるまでに帝も取り込む周到さ。





「未だ朝歌に於いて、時機に非ずとの声を圧倒するに至っていないが、十年と待たせることは有るまい。時は必ず来る、否、今を於いて時は無い。」

 再びゆったりとした構えに戻ると、機嫌を取ろうと寄り添ってくる鶴の羽根に片手を沿わせる。

「よしよし、いい子だ……。王将軍、華やかな武勲の、これが最後の機会となると思わないかい。先陣を切り蜀の地を発つ、二匹の蛇の一方の頭として。そして、」







「呉の地を踏むのに、誰かの後塵を拝したいかい?」





「―――羊将軍、私を唆されますか……?」





 あまりに甘い蜜の香に、王士治は引き摺り込まれそうになりながらも、僅かながらの抵抗を試みた。闇雲に放った矢ではあったが、羊叔子は不意を突かれたらしい。毒気を抜かれた表情は、終始優位に交渉を進めていた彼が初めて見せた綻びだった。
 それでも、大勢を覆すには至らない。

「やあ、反撃されるとは考えていなかったなあ。どうしようか。」

 眉尻を下げながら、傍らで休んでいる鶴の頸を撫ぜる。
 考えていなかったというのは嘘だろう。策士は幾つもの筋道を胸に秘めているものだ。

 ――とは言え、己の中にこの話を断る理由は一つも見当たらない。

 先鋒、武勲、何もかも、自分が長年求めて果たせなかったものだ。強大な軍権と快い責務の重圧は武官の誉れだ。





「羊将軍、私のような乾ききった老木に火を点けることが、どういうことかお分かりか。」
「無論、先刻承知している。斯様な火花が飛び散るか、期待しているよ。」



 結局、羊叔子は終始微笑んだままだった。

「そうだ、詰めの話は後にして、一先ずは餞別の酒を呑もうか。蜀の地は遠いからね。」











 羊叔子が唆した所為で王士治が征呉戦の時に一番乗りしちゃいました、というお話。ありそうではないですか…?王士治の蜀行きは彼の伝を読む限り、羊叔子の説得によったみたいですし。
 王士治は羊叔子を総司令官とした戦しか想定していなかったのかもしれないなあ、という気もします。頑固者ですから。
 呉平定の後も武官にしては珍しく官位を重ねています。顔が良かったからでしょうか。(容貌も徳の現れの一つなのだそうです。)80歳の大往生。諡は武侯…ってまんまです。
 実はこの小話の第一稿では王士治の職歴を派手に間違えていまして、益州刺史をくびになって郷里へ帰郷の途中に羊叔子が待ち構えるというお話になっていました。事実は違ってますよ。前益州刺史を殺害した叛乱勢力を鎮圧した功で昇進してます。ただ、その官職が結局どれなのか羊叔子の伝と、王士治の伝とずれがあります…どっちが正しいんだ。とりあえず、王士治の伝に従っています。(07.04.16)