つきおち からすなき しも てんにみつ
日蝕。凍えた真昼のことだった。
月の如く欠け往く日輪。隠蔽を拒むかのように洩れる白い糸のような炎。
この天異に、天文官は血の気が失せているのか、祈りを捧げているのか。
羊叔子は何も書かれていない紙片の中央に蝋燭の灯を翳した。紙片は始は赤茶けて焦げ、徐々にその色は昏く漆黒へと染まると、不意に朱の火を吹き上げた。そして火によって裂けた円は、じわりと飛び火しながら円周を拡げつつある。
「ふむ、太陽と同じくは酷かな。」
紙片を蝋燭から離すと、そのまま枕元に置かれた薬湯に浸けてしまった。蟇蛙のような断末魔と共に火は消え失せ、紙片は暗緑色の薬湯に沈む。
その間にも、日輪は漆黒の月の影へと姿を隠しつつある。
室内は急に暗くなり、昼とも夜ともつかぬ曖昧な陰りの中に羊叔子は取り残される。
鎮まることのなかった風も収まったのか、枯れた草ずれの音もなく息を潜めた静寂だけが支配する。陰鬱な青い沈黙。
―――くるしい。
息を吐くことも許さぬような沈黙の中、日輪は、一欠片の白光が掻き消えると共に、黒い面へと変貌する。
墨というより井戸の底を思わせる昏い蓋に、抑え切れぬ青白い焔が立ち上っている姿は。
漸く牀から起き上がると、上着を肩に掛け羊叔子は宵のような庭へ出た。二日程、熱を発して寝込んでいた為か酷く足元が覚束無い。
消えた日輪から噴き上がる純白の焔を眺めながら、自身の熱はまだ抑えられるかどうか、それだけが頭にあった。
しも てんにみつ。
春の宵、天球に揚げられた朱の旗は、日毎その等級を強めていた。
東井に現われた蚩尤旗の尾は、争乱に惑う星以上に赤く炯々と輝いている。
―――更なる戦乱の兆か。
―――覇者が四海を征するか。
綻ぶ桃花を愛でることもないまま、夜を迎え東井の星の狭隘にはためく軍旗に慄く市井の囁きは、横たわる羊叔子の耳にも充分届く大きさだった。
禅譲による曹氏から司馬氏への天命の交代があったとはいえ、血腥い話が絶えた年は未だ嘗て無い。常に四海の何処かで鳴動が続いていたのだ。
それでも。
漢の高祖は蚩尤旗と黄帝の旗を以て、群雄の割拠する中華の地を平らげたという。
時が終に満ちたのか。満ち溢れようとしているのか。
布石は打ってきた。そして、風に聞こえるのは呉主の暴虐と諫止する臣下の不在。
対岸の篝火を眺めるだけの時に終止符を。
筆を。上奏を。
がたん。
我に返れば、無様に牀から滑り落ち、強かに膝を打ちつけている自分の姿があった。
足も、腕も、病を発した年明けに比べて格段に肉が落ち、細く骨が浮いている。下がることのない熱を体内に飼い続けた挙句、その熱が羊叔子の躯を蝕み始めていた。
あの四ヶ月前の日蝕の終焉、白い炎に焼かれた末に、燃え尽きた月影のように。
情けないなあ、と痛みに呻きながら、ふと室内に射している夜光に気が付いた。
そういえば、話に聞くだけで未だ自身の目で蚩尤旗を見ていない。時が来たと上奏文まで書こうとしていたが、現物を見ていないとは滑稽だ。確かに自分の頭は熱で少々やられているとみえる。
自虐気味に省みると、扉を支えに何とか立ち上がり、壁伝いに何旬振りかの庭に出た。
想像以上に萎えた脚力に衝撃を受け、果たして馬に乗ることが出来るのかと不安になる。
征討の兵の指揮は可能なのかと。
このまま、熱に総てを喰われるのか。―――いやだ、自分は為すべきことをしていない。
軽く頭を振ると、濃藍の天球を振り仰ぐ。
朱雀の七宿を求めて、霜を散りばめた深い色の宙海を視線が彷徨う。
朦朧としながらも、あまり明るさのない星の一群を見付けた。積尸から立ち昇る気のさ迷い群れる、蒼褪めた幽い井戸。常なら気も留めぬ弱々しい光に吸い寄せられる意識を、辛うじて引き剥がす。まだだ。まだ、自分は彼の冥暗を必要とはしていない。
鬼宿から黄道を逆に進むと、燐と輝く二連星が現われる。その中に、轟々と音も響いてきそうな蚩尤旗が在った。
白色の頭、赤い尾。傷口から吹き出したばかりの濁りなき鮮血のような赤い尾は、宙を僅かに横に刷いている。高々と掲げられ、天界の強風に靡く軍旗の如く。
そして周囲に広がる赤雲は徐々に不気味な光を発し。
膨れ上がる赤光は霧のように青藍の天を侵食する。
つき は おち。
羊叔子の視界で、朱の軍旗は両の腕を拡げるように全天を圧し始める―――。
軍旗の合間に、人成らざる蚩尤の眦が、金色の爛光が現われる。
『地ではためき吾に続く軍旗は何処に在りや?』
「朱に染まるは、地ではない。」
薄れ行く意識の中で、羊叔子は猶も足掻こうと呟いた。
我等に必要なのは龍の加護。
長江の急流を制する者。
霧を操り黄帝に敗北した鬼神の加護ではない。
我等の掲げる旗は、朱ではない。
残滓すらその国は残してはいまい。
怒濤の如く、天を圧する咆哮と共に彼の国を飲み込む軍は、不吉な兵乱の兆ではなく―――。
からす は なき。
崩れる躯を誰かが支える。従者だろうか、遠くから喚くような声がすると、一斉に背後が明るくなり、慌しい足音が響いていた。
だが、羊叔子の意識にはもう、何も届いてはいなかった。
瞼の裏には、炎に灼ける蚩尤旗と、日蝕の黒い太陽の淵、純白の中を踊り狂っていた朱雀の姿だけが、張り付いていた。
つき おち からす なき しも てん に みつ
『今主上有禅代之美 而功徳未著―――』
入朝を。
切に願い、容れられた時には、既に羊叔子の星は燃え尽きようとしていた。
自身の発する熱と重みに因って自壊して行く巨星の如く。
了
天文ネタです。ネタとして美味しいのに消化不良もいいところですね…。
あまり年号出すのは好きではないのですが…はい、羊叔子逝去の年です。この年の日蝕ですが、どうも皆既日食だったのではないかという説があるそうです。日蝕を予知できないと天文官は首を刎ねられることもあったとか。
で、今回メイン(一応)の蚩尤旗ですが。『晋書』の天文志によると「彗星に似て後ろが曲がり、旗を象る。赤雲を見るとも、色は上が黄色で下が白とも、うんたらかんたら。」(いい加減すぎ。)そして、大乱を予兆するとされています。事実彗星だとしたら、今で言う何彗星なのかなあ、写真見たいけど調べ方が判らない…。
そして蚩尤旗の現われた東井は現在の双子座にあたるそうです。二十八宿なんてわかんないよー!と爆発しかけました。
あ、途中で入っている「つきおち〜」というのは唐の張継『楓橋夜泊』の第一句からです。関係ないやん。(07.07.11)