それを、人は鬼神と呼ぶのか。
それとも、兇桀と葬り去るのか。
窮鼠と云うには余りにも、凄惨な。―――清算の果てに何を見たのか。
徴は、まだか。
紅の袍を、朱に染め上げながら、姜伯約の視線は何故か空ばかり見ていた。
飛鳥も無く、白雲すら煤に汚された空には何も残されていなかった。それでも。
姜伯約は、執拗に仰ぎ見た空に心を彷徨わせていた。
『地を支える綱と申します。』
兆は、まだか。
幼き頃、母に擁かれ眠りに落ちる時の物語だったのか。
それとも、珍しく酩酊した師が弾き語った調であったか。
壮年の頃は弄ることも無く、思い出しもしなかった記憶が、曖昧なままに形を取ろうとしていた。
何故、今になってと問うことは容易いが、己には時間が無いのだ。ただ、一目だけ見たいのだ。
最早、最後の武器となった匕首も、人の脂と骨に傷め付けられ用を為してはいない。それでも、僅かでも生きる時間を引き延ばそうと、晦冥の海から遠ざかろうと、匕首を躍らせていた。
『天と大地を結んでいると申します。』
瑞は、まだ、か。
鈍っていた感覚を目覚めさせるような衝撃が、背後からひとつ、ふたつ。
自らの躯を宿り木としたかのような白刃は、姜伯約の血を伝わせ惜しげもなく敷き詰められた石畳に吸わせている。
そして均衡を失い倒れようとする躯に、まだ赦されぬと更に正面から、左右から、白刃が打ち下ろされ肉体を抉ってゆく。
――このまま肉塊になるまで刻んでくれるか。それも良かろう、私も清々する。だが。
正面から串刺しにし、抜き取れぬ剣に四苦八苦している兵を突き飛ばし、尚も近くに居残っていた敵の襟首を、誰の血糊も判別付かぬ手で捕らえると、掌に張り付き肉体の一部と化したような匕首を、喉元に突き立てた。
しかし、再び匕首を引抜く程に力は残されていない。辛うじて、固まっていた指を解き、崩れ落ちてくる屍を引き剥がすので精一杯だった。その一連の動きすら、限界を越えた酷使だったのだろう、鈍い輝きを放つ己の躯と一体になった刃から滴る鮮血は量を増し、足許は黒々と呑み込むような池が拡がりつつある。
天水の妻も、この蜀で添い遂げた娘も、姜伯約の名を知ったとき同じようなことを言ったのだった。
『貴方は、この大地の片隅でひとり天を支えるのですね。』
『大地が天から離れぬように、縄を綯い続けるのですね。』
きざし、は。
『天命すら認めぬ驕児よ、それでもお前は見ることができるのだろうか。王の生まれる瑞兆を。』
『お前が本当に天を支える力が有るならば…そのために、闘う力を手に入れなさい。』
矢の掠める音も、焔に食い千切られ崩れ落ちる柱の轟音も、もう耳には届いてはいなかった。
ただ、空だけを。
所詮、自分の力だけではこの広大な蒼天の一隅すら、支えることができなかったが。(矜持がなかったわけではない。)
それでも。たった一度だけでよいのだ。(それすら多くを望みすぎているとしても。)
自身の躯を支える力も失われ、目に映る光景が反転する。
手に手に光るものを翳して殺到する兵の姿を知覚したのは一瞬だった。
世界が灰色に塗り潰され、昏い幕を下ろす僅かな隙間に確かに視界に在った。
深く澄み渡った紺碧の空へと舞う、炎に浄化され新たな命を芽吹かせた鳳が羽ばたくのを。
差し伸べた手は届きはしなかったが。
――追い求めたものは、遥か遠くだったが。
地を天と約す地維が燃え落ちる。
それが四神の咲かせた徒花であったか知る由もなく。
了
維=天から地をつりさげているという四隅のつな。
約=しめくくる。/なわ(縄)/ちかう。むすぶ。
……っていうのを漢和辞典で見つけて、姜伯約って随分すごい名をもっているんだなあと思いつつぽちぽち書いた小話がこれってどういうことですか。凄惨描写が苦手な方はごめんなさい。でも歴史物だと避けて通れないので注意書きしてません…やっぱりまずいかなあ…。(07.04.02)