まぼろしのう。




 「『王佐の才』とは、残酷ですね。」

 荀文若はほんの僅かに筆を止めたが、声を発した方を振り返ることはしなかった。
 二人しかいない部屋の中、竹簡の乾いた音だけが響く。あとは墨と、かの荀令香が仄かに香るだけだった。

 一刻も過ぎてはいなかっただろう、ふと、背中の重みと温みが遠のいた。

 「奉孝?」

 不思議そうな表情で振り返ると、立ち上がってそれまで床に散らかして見ていた地図や竹簡を乱雑に掻き集めている郭奉孝と目が合った。 つい先程まで、荀文若の背を、苦情などどこ吹く風と我が物顔のように背凭れにしていた男だ。 自分の背が必要なくなったらなくなったで、一言もない―ことに。

 珍しく、彼は不満を覚えた。

 「…奉孝。」僅かに温度の下がった声が形の良い口から零れ落ちる。

 「『王佐の才』とは残酷ですね。」

 抗議を聞いているのかいないのか、詠う様に、揶揄された本人が忘れかけていた台詞を繰り返す。
 そして、神経を逆撫でするように畳み掛けてきた。

 「貴方は、決して、『主』にはなれない。その宣告としか思えませんね。」

 時折、このだらしのない年下の才溢れる軍祭酒殿は、陰気で典雅な年上の尚書令殿に戯言を言って絡む悪癖をみせる。 忙しいから邪魔をするなと怒鳴ることもないが、普段からあしらうことには慣れている。
 とはいえ、今回に限れば袖を引いたのは荀文若の方である。
 軽く溜息を付くと、筆を置いて向き直る。いつものように、気を引くことに成功して悪戯っぽい笑顔を見せているのかと思えば、 その面には一片の表情も浮んではいなかった。ただ、眼に尋常でない強さの光がある。
 その張り詰めた空気を払うかのように、口を開いた。

 「私は己の分を弁えている、その才も。上に立つべき者と異なる天命の元にあると、知って」
 「いつも、貴方は、近くにいる時に言葉が足りないんだ。必要なことしか口にしないのは、清廉とも老獪とも言う事は出来るけれど―。」

 その後の言葉を宙に探すようにふと目を彷徨わせる。切羽詰った空気は纏ったままだ。

 「そうか。―貴方はまだ『王』を見つけていないのか。その才を揮う為の輝かしき『王』を。」

 荀文若は整った眉を僅かに顰めた。

 郭奉孝の話の飛び方はいつものことだった。 彼は自分が今、口にしていることと異なる事象がいつも脳裏の大半を占めているのか、話していることの前後に脈絡がないことがまま、ある。 ただ、他の人物の前でその怪奇な思考の巡りを欠片も見せることはない。
 甘え、である。
 彼曰く、「私の考えなど全てご存知でしょう、隠しても意味がない。」という子供のような言い分である。

 ―だが、言葉に乗せて良いことの限度を明らかに超えていた。少なくとも、この政務の場では。

 「奉孝、では今、私がいるこの場は何だと言うのです。」
 「貴方が、仕えているのは主公ではない。そして」





 「―曹孟徳は、『王』ではない。」

 冷えきった声音で郭奉孝は囁いた。





 「その自明のことを、判っているのでしょう。」
 「―珍しいですね。貴方が形式で物事を測るなどと。」
 「逃げないで下さい。…………あ、いえ、」



 「―失礼しました。」

 郭奉孝は我に返り、いつの間にか掴んでいた荀文若の肩を手放した。 衣服の皺がついた辺り、知らず力が篭っていたらしいが、それを払うことをせず痛がりもしない優しさに、 胸の奥に痛みが走った。それが残酷であることに気が付きもしない、これは鈍感さだろうかと。

 治世の能臣とは、この眼前の貴人にこそ相応しい。
 そして、彼は乱世の奸雄ではない。

 そこにある大きな溝に、曹孟徳も荀文若も気が付いていない。





 『我が子房なり』





 違うのですよ、主公。
 この人の『王佐の才』は、覇王のものではないのですよ。
 覇道ではない、王道の為のものなのですよ。

 何故、こんな簡単なことが。

 それとも、簡単すぎるがゆえに。

 お互い、欠けたものを見出し、その闇に魅せられ利用し喰らい合う。どちらかを貪り尽くしたところで、相手の血肉が自らの力となることは 無いというのに。どちらが光なのか影なのか、もう判らなくなっているのだろう。

 郭奉孝は、初めて、『漢』に、至高に座す形ばかりの『王』に、昏い憎悪を抱いた。 そして、それは一体誰の為に抱いたものなのか、彼は己の心中を測ることができなかった。
 愕然とした。―自分ですら、この二人を同一視していることに。





 「大丈夫です。」

 荀文若は幽かな明かりを灯すようにひっそりと微笑むと、「何が」とも「誰が」とも示すことなく、大丈夫ですよ、と繰り返した。










 温い風が室を抜けていった。
 話は終わりだ、と言うかのように、荀文若は背を向け再び筆を取った。
 その背を眺めながら、郭奉孝は、やっと自分がこの眼前の人の為に憎悪し、今哭いていることに気がついた。









 王佐の才の『王』って漢王朝の帝を指していたんじゃないかなあとか。
 荀文若にはいつも全力な歳の離れた弟属性の郭奉孝が好きみたいです。(06.07.11)