あの屋敷は、永久に花吹雪が舞う、常世の春を謳う場所。
白い絹に包まれて睡る、薄墨の舞台ではない。
荀奉倩が死んだ。
己の才を嘯きながら、その片鱗だけを見せ、呆気なく妻の後を追った。
最期まで身勝手だった人間の為に、十数名の名士達が号泣した。
数か月前から、荀奉倩の死相は明らかだった。いくら医師を寄越しても、頑として治療も受けず、薬も飲まず、ただ、無為なり、と己の虚無思想に忠実だった。
傅蘭石が見兼ねて、荀奉倩自身の放言を引いても効果はなかった。
春の祭典はもう、終わってしまったのだと。
人ひとり救えぬ程、己の言葉には力が無いものだと、これ以上ない形で突き付けられたのは堪えた。傅蘭石はしみじみと経書に寄り掛かった知識ばかりが膨大な自身の頭脳を呪った。
喪中の親族を訪ねるのは気が引けたが、もう、彼のことを親しく話せる兄弟は一人しか残されていない。僅かな後ろめたさを共有する相手を求めるように、荀景倩の邸宅の門を潜った。
どこまでも相容れるところを見出だすことのできなかった双生児は、珠玉の見えぬ致命的な瑕だけは鏡に映したようによく似ていた。
そう、鏡のように左右は異なってはいたが。
弟は奇矯さでその瑕を覆い、兄は慎重さによって隠した。その色の違う衣の下で、二人していつまでも生々しいまま癒えない瑕を舐め合っていたのだろうか。
一人残された兄は、自身の瑕の場所を知っているだろうか。不知ならば、誰がその瑕を受け止めるのか。
傅蘭石の危惧は、的を射ていたようだった。
風もそよぐことを留めた邸内から、微かに女の悲鳴と、物が割れる音が聞こえた。
足音こそ忍びやかであるのに、この慌ただしい空気は何なのか。
傅蘭石は案内も乞わずに、さして広くはない邸宅に踏み込んだ。
うろたえた家宰、青褪めた侍女、それらを横目に彼の居室へと向かう。
庭に植わっている真っ赤な花の名は知らないが、酷く目の端を刺し貫くようだった。ああ、あの花は荀奉倩が好んで自宅にも植えていた…。
虚無を語りながら、誰よりもはっきりとした形を欲していたのだろうか。何らかの明確な答えを。
それは、一体。
思考は迷い道に踏み出しながらも、傅蘭石の歩みは真っ直ぐ目的地に辿り着いた。
端正な主人の人柄を映すように手入れの行き届いた家屋は、軋む事なく扉を開けることができた。
赤く染まった白。
…血潮?
普段は焚かれた香と墨の匂いしかない室内には、文人には異質な錆びた臭いが混ざっていた。
「景倩殿。」
傅蘭石の呼び掛けに応えて振り向いたのは、蒼白な顔色で夫の腕に縋り付いている陳夫人だけだった。
「蘭石殿。」
暫くの沈黙の後、荀景倩はひどく透き通った明るい声で、訪問者を呼んだ。
「奉ちゃんはね、白がとても嫌いだった。雪が降り積もれば墨をぶちまけるし、白梅が咲けば色鮮やかな布でその花弁を隠してしまうほどだったんだよ。だから、ね。こうして。」
普段の荀景倩を知る者が見れば、その狂態に絶句しただろう。まるで、子供に返ってしまったかのような無邪気な笑みは、背筋を凍らせるには充分なものだった。
「こうして。」
荀景倩は、日常で見せることがないほどの、清々とした微笑と共に、手にした刃物で反対側の手の指先を次々と切り裂き始めた。流れ落ちる鮮血は、一滴二滴と、荀景倩の喪服の白を染めてゆく。
やめて、という夫人の枯れた声は届かない。
人形劇を見ているような、不可解な光景は、我に返った傅蘭石が荀景倩の頬を張り飛ばしたことによって、しばし中断した。幻影を引き裂くように。
「己が、何者か自覚しろ。君は地位低くとも国家の官吏であり、魏国に忌まれる荀家の実質的な当主なのだ。道は細く険しい。君の一命は君一人のものではないのだ、弁えろ。」
濃い血の臭いの圧迫感に喘ぎながら、傅蘭石は冷厳な事実を投げつけた。
「それを私が解っていないと言うのですか?」
しかし、返ってきたのは予想したよりも低い声音であり、凍えた光の無い眼だった。
狂乱を装っていたと言うのか、だが、何の為に。傅蘭石は混乱した。
「本当に狂えたらどんなに良いか。片羽を喪った筈なのに、涙も哀しみも湧いて来ないのです。何処の泉に参れば、涙となる水を手に入れられるのでしょうか。だからせめて同じ血を流そうと思うしかなかったのです。」
「……それを狂っていると言うのだ。眠っていないような顔色だ。兎に角寝め。ああ、刃物は奥方に」
「割れた玉には。」
「何?」
「それでも価値はありますか、蘭石殿。」
「割れようが、小さかろうが、玉は玉だ。己で光を放つかどうかは別として。」
荀奉倩は、光を放つ前に逝ってしまった。では、荀景倩は。
そして、傅蘭石は恐ろしい予測を自分がしていることに気が付いた。人は云う、官途に付いた荀景倩が光、虚無思想に魅入られた荀奉倩が闇だと。だが、事実は逆ではないのか。光が奪われ、闇は独り残されたとすれば。
「蘭石殿。」
父親の血が濃く出た、憂いの表情を見せながら荀景倩は庭へ通じる扉を開き、振り返った。
庭には、真っ赤な花が、白の喪服を彩るように咲き誇っている。陳夫人は夫の姿を見て何かを察したのだろう、泣き崩れてしまった。
傅蘭石は、ただただ、その酔い痴れるような妖の光景に魅入られた。
蒼白な顔色ながら、何故か紅を引いたように赤い唇がゆっくりと言葉を紡ぐ。
「もう、だれも、わたしを、とめるものが、いなくなってしまった…。」
了
何故こんな狂気系なお話になったのでしょう。でも、最後に残された兄弟で、しかも弟を失うと言うのはものすごいショックだと思いますよ。荀奉倩は二十九歳の若さで世を去っていますし。というか、荀景倩好きなんだから偶には良い目をさせてあげたいのに、何でかこの人の身辺は陰が多いんですよねー。(それは妄想では。)(06.10.22)