ひとりは、う。




 また、いつものように膝の上に頭を乗せ、腰に手を回して、彼は呟きました。ひとりにしないで、と。

 毎晩のように、彼は不安な子供になってしまいます。陽のある内は、論敵を鮮やかな弁論で論破し、少ないけれども著名な友人達と、私には良く分からないような世界について語り明かしているというのに。

 夫である荀奉倩とは、実は古い知り合いです。私の容貌は、自分で言うのも可笑しな話ですが、かなり早い時期から評判になっていました。ですが、父が一時期天子さまのご不興を買った為、所謂行き遅れになってしまっていました。
 そこに京洛に出て来たばかりのやんちゃ盛りの彼は、ひょいと身軽に屋敷の塀を超えて噂の確認に忍び込んで来たのです。

 6、7歳年上の私からすれば、子供の悪戯のようなもの。
 彼は悪びれもせず、

『やっぱり女は顔だよな。』

と、女である私の前で言ってのけました。

『許婚はいないんだ?』
『だってもうこんな歳だもの、仕方ないわ。』
『いや、男なら容姿端麗な夫人を手にする為なら、天意にも逆らう気概がないと。』

 顔立ちは整っているとはいえ、こんな歳になって樹をするすると登る身軽さの体躯の持ち主です。その細い体の大言壮語という落差に吹き出したものです。
 それから、新月の夜になると、迷い猫のように忍んで来るようになりました。
 伝え聞く傲岸さとは無縁の、随分と無邪気な笑みはひどく私の庇護欲を刺激してやまないものでした。

 暫く童の戯れのような逢瀬を続けていましたが、身辺を整え奉倩が父に求婚をしたことは、一言の相談もない身勝手なことでした。母が破鏡を心配したのも当然です、それほど彼の放言は知られていたのですから。

 二人ささやかな生活を始めてみれば、奉倩のはしゃぎようは本当に幼児のようでした。
 綺麗な帳、艶やかな私の服、庭に色とりどりの花を植え、毎日が春であるかのように家を飾り付けていきました。
 まるでおままごとのような暮らしは、霞のような不安を包みながらも、仙峡にいるかのように心穏やかなものでした。
 王侯の暮らしのような豪奢さはなく、ただただ儚く、花が散るまでかもしれないと思いながら…。


「ひとりにしないで。」

 夜、休もうと寝所へ向かおうとすると、後ろからそっと腕を回されます。闇夜に怯えるように、呑み込まれまいとするように。

「夫婦といえども、床は同じくするものではありませんよ。」
「それは本当の孤独を知らない傲慢な輩が吐いたに違いない。」

 回された腕は更に力が込められ、必死で振り解かれまいと頬を摺り寄せてきます。

「ひとりにしないで。」

 それは、甘美な睦言ではなく、切羽詰った恐怖の声でした。狂おしいまでに人の温もりを求める、彼の奈落の底にいるような孤独は何処から来たものなのか、とうとう私には分かりませんでした。





 今、病身の身を横たえ、私の病状を知り、狂乱と言ってよいほどの悲嘆を見せる彼を見ても。
 これほどに愛しみ合っても、お互いの傷を癒すことが出来ないなんて、結婚した時は思ってもみませんでした。

 ああ、綺麗なお顔をそんなにぐしゃぐしゃにして、私のために泣かないで。
 貴方は、熱い私の躯を冷やしてくれたではありませんか。一睡もせず寂しくないようにと、私の手を握っていたではありませんか。

 ああ、こんなに目の縁を真っ赤に腫らして。透明な涙を溢れさせて。
 透き通った瞳の奥には、暗くて明るい星空が見えるかのよう。底の見えない、何処までもどこまでも、とおいそら。 深い亀裂を孕んだ、限りない夜の、永いながい孤独。


 この傷付きやすい繊細な魂を、濁世に独り残して行かなければならないことだけが、私はとても悲しくてならないのです。
 この弾けるような華の笑顔と、澄み渡った精神に寄り添うことが出来ない事実に、私はとても寂しくてならないのです。

 泣かないで。

 泣かないで、泣かないで。私の大事な。



 ………大事、な。







 ……あまりに小さな星落は、誰も、見ることができなかった。ただ、ひとりをのぞいて。













 『世説新語』においては惑溺篇に描かれているエピソードですが、もう想像すると泣けて泣けて。
 荀奉倩ってなんとなく母性本能をくすぐるタイプだと思うのですよ。だけど、よっぽど器がでかくないと納まらない。(苦笑) それで、曹洪の娘さんって、その器が荀奉倩にとって大きすぎもせず小さすぎもしなかったんじゃないかと。
 らぶらぶって書くの難しいです…もっといちゃいちゃさせたかった…。(06.10.22)