はりはろく。




 『晋書』王祥伝に或る挿話が載せられている。曰く、


『相王尊重 何侯既已尽敬 今便当拝也。』
『相国誠為尊貴 然是魏之宰相。吾等魏之三公 公王相去 一階而已 班例大同 安有天子三司而輒拝人者!損魏朝之望 虧晋王之徳 君子愛人以礼 吾不為也。』


『今日方知君見顧之重矣!』


 ――と。




 書庫で必要な書簡を腕に収めると、荀景倩は打ち合わせに後ほど執務室へ来ると言う鄭文和の為、必要事項の算段をしながら歩いていた。ゆえに、視界が少々疎かになっており、自身の執務室に先客がいることに気が付くまで若干時間を要した。
 夕刻頃、薄暗い室内の人物に気付けない程、彼自身の視力もあまり良くはなかったといえば、それまでではあるのだが。

「失礼致しました、王よ。」

 荀景倩は自然に王者に対する拝礼を採ろうとした。
 王、と言えば、皇帝の血脈を除けば、現在は晋王である司馬子上しかいない。しかし。

 何かが空を切る様な鈍い音がしたかと思うと、『それ』は荀景倩の左のこめかみを直撃し、そのまま床へと落ちると粉々に砕け散った。
 ひやりとした透明な雫と交じり合うように深紅の河が左の頬を途切れなく滑り落ちてゆく。それは着物の襟を伝い、袖を黒く染め上げる。

 それでも、荀景倩は眉一つ動かさず、姿勢を動かすこともない。
 礼をしたままの脇を、司馬子上は一言も発することなく擦り抜けて室を出て行った。残していった足音は苛立ちが少々、憤怒が少々。
 無理からぬことだと、荀景倩は司馬子上の煮繰り返る腸の原因を正確に推察していた。
 それでも自分が採った卑屈な態度を間違っているとは思ってはいない。それが礼に反するものだとしても。



 足音が耳に届かなくなると、片膝を下ろして自分に投げ付けられ砕けた破片を拾い始めた。
 元は玻璃の酒盃だったものだ。荀景倩が自邸に出入りしている西域の商人から贖ったもので、司馬子上は殊の他気に入って、室に来た時は湯ですらこの杯で飲みたがった。

 黄昏も過ぎ、従者が灯を入れに来て初めて室内の凄惨な状況に気付き、うろたえるのを宥め賺し、集めた玻璃の破片の処分を任せる。そして、濡れた布と包帯を持ってくるように言い付けた。

「差し出がましくはありますが、医局の者をお呼びしなくても?」
「必要ありません。もう血も止まりましたから。ああ、それから鄭侯が直に来られますから更衣を……」
「もう来ている。なんだ、その有様は。」










「お待たせ致しました。」
「……勤勉なのは結構だが、貴卿、蓬莱で神仙となるには少々早すぎはしまいか。」

 鄭文和は執務用に既決、未決、参考文献と几帳面に別けられた荀景倩の蔵書の隅に、私用の書簡類を見付けたようだった。それらの内の一巻を紐解き、僅かの時間を紛らわせつつ眉を顰めていたらしい。

「まさか。私は黄老の思想に毫も救いを見出せませんから。流行の思想がどのようなものかと好奇の心が動いただけです。」
「医師には見せなんだか。」
「私たちは、囀る口と、筆を持つ手と、諸思想と慣習の詰まった脳漿さえあれば充分でしょう。」

 失礼、と一言断り、自らの血に塗れた服を替えた荀景倩は、卓を挟んで鄭文和の正面に坐した。本来であれば、主客の位置が逆なのだが、今更鄭文和は動く気はないだろう。
 傷口は開いたままなのか、包帯で縛ってはいるものの、淡く朱の色が滲んでいる。

「囀る口は、この朝歌には多すぎるようだな。午の話はもう誰一人知らぬ者もない。」
「何のことでしょう。」
「王休徴はどこまでも実直だ。そして忠は魏帝にのみ捧げられている。だが荀君、貴卿はその実直さを王休徴にしか許さなくしたのだぞ。」

 薄い唇に幽かな笑みを刻んでいる姿は謙虚そのものだ。朱に染まる包帯の凄惨さが不釣合いなほどに。

「清流で耳は洗われましたか。」
「清音の響く流水など、京洛に在るとはとんと聞かぬな。」


 その謙虚さの陰に、誰にも悟られぬような、或いは本人すら自覚していない、疑惑と謀略の種を埋め込むもう一つの貌が有る。
 冷酷な観察者が退屈凌ぎに鏡のような水面に一滴雫を垂らすように、そしてその波紋の広がりを再び観察する為に沈黙するように、荀景倩は魏朝に引掻き傷を残していく。



 刈り入れた稲を、脱穀し選り分けるように、日和見を決め込もうとする士人たちに選択を迫っているのだ。
 そして、魏朝と司馬一族はあまりに長く共生していた。どちらが宿り木だったのかもはや誰も覚えていまい。
 選択に良心の呵責を感じる者が残っているだろうか。否!
 正気の慨嘆など、空疎な清談の中に閉じ込めておけばよいだけのこと、押し寄せる現世の波浪に抗う術などないのだから。





「世人も、後世の史家も王侯を賞賛するでしょうね。」

 私の父も、或いは賞賛の的となる日が来るのでしょうね。滅び行く者への郷愁ゆえに。

「そうだ。荀君は礼を識りながら、佞媚の臣であったと記すであろうな。」

 仮令、今の濁世の者の目が曇っていたとて、いつか必ず正当な評価が下されよう。建設者の傍らに在ったことが、常に賞賛されるとは限らぬと。







 鄭文和は、王休徴と荀景倩二人の態度の差を論う気はない。優劣を陰で囁いている宮廷の者たちを愚と断じる気にもなれない。
 嗤おうと嘲ろうと、実を取った荀景倩に全ての者は倣う外ないのだ。司馬子上が不用意な発言をし、内心の驕慢を曝け出した以上、誰が王休徴のような頑なな、礼に則った態度を取れるのか。

 司馬子上も、総てを見透かしたような荀景倩によって本音を引き摺り出されたことに不快感を抱いても可笑しくは有るまい。とはいえ、責めることも出来ない挙句が、無言の非難となってこめかみを割ったということだろう。





「正義など、誰も求めてはいないのですよ。」

 氷塊を含んだ言葉が、穏和で控えめな唇から零れる。

「芳醇とは凡そ程遠い酒であれ、与えられれば酔い痴れ踊り狂えるならばそれで良い……。」
「それは貴卿のことを言っているのかね、荀君?」

 敢えて真意を外した応えを返した鄭文和に、荀景倩はただ目元を弓形に刻んだまま穏やかに微笑しただけだった。真綿に包んで投げた批判は甘んじて受ける気であろう。



 そうやって、彼は常に黙ったままだったのだから。









「さて、そろそろ本題に移りましょう。夜は永くとも何時かは明けると言いますし。」
「人選で随分と無理を押し通したそうではないか、貴卿にしては珍しい。」
「制定の敲き台を作るだけでも相当の労を要しますから、揉め事は最小限に抑えたかったのですよ。厄介な問題は総て相談役である鄭侯に、との晋王の思し召しです。お覚悟の程を。」
「私に総て押し付ける気か。こちらとて、その頭脳を休ませる気はないぞ。」

 来るべき晋朝の為の、『礼儀』の制定の統括者が荀景倩であるのは皮肉だ。
 鄭文和はその言を吐いて道化になろうとは思わなかった。





 銀糸と藍糸の隙間を一筋、包帯から毀れ落ちた朱がぼんやりと灯に揺れた。












 王祥伝の訳については、ネット上でも見ることができます。“環”で晋書訳のサイト様にリンクしています、ご参考まで。
 乱暴な要約をすれば、荀景倩が「晋王になったから拝礼すべきでは。」王休徴が「王とはいえ魏の宰相であり、我らは魏の三公。何故拝礼しなければならないのか。晋王の徳の為にも良くないことだ。」そして荀景倩は拝礼し、王休徴は同僚にするような略式の礼で済ませた。それを見て司馬子上が王休徴の知見を讃えたというお話です。(王休徴のあたりが誤訳酷い気がする。)
 漢文はできるだけ現在の漢字に置き変えています。
 王祥伝のこの話を読んでいると荀景倩って策士というか意地悪いと思ってしまいます…。だから時々「拝礼を強要した」って訳されるんですよね…強要してないのにー。
 王休徴、鄭文和、何頴考、荀景倩は西晋初の四爺って理解しています。しかも何気に仲悪そうなんですがこの四人。鄭文和と荀景倩はまだ接点がぽろぽろあるので良いとして、他は剃り合わなさそうなんですよ。この頑固爺たちを何であんなに気に入っていたのかと晋の武帝に聞いてみたいです。(みなとはこれでも荀景倩が大好きなんだ!)(07.04.05)