おどりるう。




 “おお、光が失せてゆく、一日が消えてゆく。”




 夜襲は無いな。

 胆力が無ければ立っていることも叶わないであろう断崖の淵から、姜伯約は眼下の火の動きを見て判断する。
 尤も、このような断崖絶壁は険阻といわれる蜀の入口に駐屯していた兵にとっては見慣れた日常の一部だった。足場が崩れかけながらも、顔色一つ変えず矢箭を運び、糧を抱え、屍となった同胞を担ぎ、往来をくり返す。





 日が高い頃の攻防は此れまで以上の激しさだった。

 ケ士載の率いる一軍が、ここ剣閣から離脱したらしいという報は今朝届いた。
 夜陰に乗じたというが、敢えて隠すつもりも無かったかのように、眼下の魏軍の野営地は一部ぽっかりと穴が開いていた。

 ――不仲という噂は事実か。
 ――しかし、…いったいどこへ?

 領内の地図は頭に完璧に入っていながらも、苛立ちを押さえられないように姜伯約は地図を開いた。
 己が知らず、奴が知る途が有るというのか。それは姜伯約の許容範囲を超えた屈辱だった。只でさえ、煮え湯を幾度も呑まされた相手だ、成都へ急報を打ったとはいえ予測外の進入路に対応できるほど蜀内部に配置されている軍勢は――。

 その思考を破るように、魏軍の軍鼓がこれまでにない大きさで鳴り響いた。



 この頂に階梯を架けようと工兵が押し寄せ、楯を構えた重装歩兵が周りを取り囲み、弓兵が援護する。
 張伯恭は慌てもせず、陣の前に楯を並べ、廖元倹の腕の一振りで階梯を破壊する大岩が投げ落とされる。そして放たれる連弩の威力は高さと相俟って絶大な効果を発揮する。

「数で押し込む気か。」
「……間違ってはおらんだろう。戦に物量がものを言うのは付き物ではないかね。」

 魏兵は、背後から圧されるが儘に蜀軍本陣の足許の崖へと吸い寄せられてくる。そして屍となりそれが丘へと、山へと積み上がり始める。
 姜伯約は感情を映さない黒曜石のような瞳を揺らすことなく一言鋭く声を上げる。

「火を。」
「なんだと?」

 張伯恭が目を剥いた。

「死体を土嚢代わりに道にする気だ。燃やせ。油は必要有るまい、死体の脂で充分だ。」



 日が正中から僅かに傾き始めた頃、一斉に放たれた火矢によって魏軍の駐屯地と、剣閣を本営とする蜀軍との間に強大な火柱が大地を割るように噴き上がった。
 天まで焼き焦がす焔の舌は敵味方など無いとばかりに荒れ狂う。人間の焼ける臭いが鼻腔を麻痺させる。
 雨も降ることなく乾いた風が吹き荒ぶ切り立った谷間には、炎を静める方法など人智に有るはずも無い。





 その火は、未だに余燼を燻らせて阿鼻叫喚の残骸を照らし出し続けている。

「碌な死に方をせんだろうと思いますよ、この光景を見ていると。」

 隣に立った張伯恭が独白する。
 姜伯約は不思議そうに振り返った。彼の中で、悲惨な末路ということは至極当然の未来だった。天水での殺伐とした記憶は姜伯約の心胆を荒廃させ、感情の一部を欠落させた。死に対する麻痺は成長と共に彼の肉体から蝕んで行った。
 真っ当な死に方とは何だ。その問いを辛うじて喉元で押し留める。日常的な温度差を今更持ち出すことも無かった。

「武人だ、私たちは。」

 当然すぎる答えしか、姜伯約には用意できなかった。

「武人なれば、将軍も昂揚されるか。我らには敵が無くば忠誠を明かす法がない。」

 余燼でありながら、熱風を送るだけの力は残されているのか、時折、解れ毛が舞う。
 それを鬱陶しげに掻き揚げながら、お互い視線を外した。

 昂揚していることは否定できなかった。生来、姜伯約は戦に倦むことのない好戦的な血が体内に流れている。馬を操り血飛沫の中を駆け抜けることを不浄だと感じたことも無い。尤も、黒くこびり付いた名も知らぬ兵の血を悦ぶことはなかったが。
 しかし、今湧き上がるのは奇妙な戸惑いの割合の方が大きい。

 何故、私は専守の側にいるのだ?
 この国は中原を目指していたのであって、社稷の守人で良しとしてはいなかった筈。
 私は、どうして、この剣閣に、籠っているのか。春を待つ雪中の芽のように。



 春ナド、来ナイ。



 頭の片隅で喚き続ける何かに、姜伯約は決して耳を傾けない。



 川の水は高きから低きに流れ、
 太陽は西から昇ることはなく、
 残光が大漢帝国の栄光に還ることはない。



 無謀だと言う北伐の諫止を、戦略の見地から聞く耳はあっても、天命の名に於いた論は興味を引かなかった。
 中原へ。我が帝が起つべき大地への道標となることが、彼の蜀軍に要る存在意義だと疑うことがなかったのだから。根無し草の元魏将には、そのことに疑義を挟むことは許されない。

 道を阻む者は捩じ伏せる。敵は斬る。

 簡単なことだ、武官は脳で考えることなく躯が反応する。だから、確かに今、この剣閣でも昂揚しているのだ、生理現象として。しかし。

「違う。これは……戦ではない。」
「戦ですぞ。これぞ、『危急存亡の秋』です。」

 前へ、前へと攻めることしか不知だと、他の膨大な知識を封印した不動の将に、張伯恭は哀れみさえ感じながら、彼の思考を厳然と否定する。
 背水の陣ではなく、彼は自身の歩んできた道を、振り返り後退する為の道を、総て焼き滅ぼしてきた。それとも彼が歩けば崩れ去るような脆い道だったのか。
 前に踏み固められた獣道すらなく、踵の先にあるのはこの剣閣のような断崖しかなく、目を凝らして朧に映る蛍火だけを追い求めてきた人間に、大樹のように根を下ろすことを理解させることはできないのか。

「戦です。国を失えば、鹿を追うことはできぬ。鹿を捕らえても、献上すべき主は冥界に降りても見出すことは不可能。」

 それでも、張伯恭は最小限の言葉も発さない人間に対し、言葉を重ね続けることを諦めはしなかった。当然だ、彼を含む蜀軍の生死を握る人間であらばこそ。
 更に言い募ろうと再び顔を向けると、既に姜伯約は張伯恭を見据えていた。視線が合うと、心の奥まで分け入ろうとするかのように覗き込む。廖元倹曰く、“姜将軍の悪癖”だ。大抵の者は落ち着きを無くすが、慣れれば、逆に感情の起伏の薄い姜伯約の激昂や意外な繊細さを読み取ることも可能だと張伯恭は感じている。



 一見、硬玉のような瞳の中で、揺らぐ蜃気楼のようなものが現れていた。

 僅かに蜀将というには白い顔を傾け、緩やかに息を吐き出すと目を瞬かせ、三度張伯恭に向き直る。

「諾。」

 ただ一言だけ告げ、峡谷の風に巻き上げられる袍を煩げに翻すと、己の幕舎へと立ち去った。

 ――何を分かった、というのだ。

 しかし、微かな不敵な笑みを口元に刻んでいたこと、幾重にも隠した瞳の奥に爆ぜる火花を確かに見たような気がする。それだけでも良しとすべきだろう、まだ衰耗するには早過ぎる。
 凌ぐべきは、明日の、そしてこれからどれ程の月日を要するか分からぬ足下の防衛であって、遠く煌く星を追い天命を取り戻すことではないのだ。

 暗がりからは推測するしかない炭と化した人間の塊を思い描くことはない。明日には現実を目の当たりにし、更に山を埋めるように屍を築くだろう。
 そして、麾下の兵の顔も、日々傷付き斃れ失われていく。予言ではなく確実な未来図だ。

 張伯恭もまた踵を返した。
 夜は長い。そして、これからの日々もまた気が遠くなるほどに長いのだ。






 “我々ガ死ンデ 死ガイハ水ニトケ、ヤガテ海ニ入リ、魚ヲ肥ヤシ、又人ノ身体ヲ作ル”
 “個人ハカリノ姿 グルグルマワル”






 封印した、予感の刻が訪れるまで、まだ幾許かの時を要したのだから。











 引用は『風雪のビヴァーク』著:松濤明からです。日本の登山家で、二十六歳という若さで北鎌尾根にて遭難死します。
 三国志から何千年後の時代だ。でも好きなんですお許し下さい。
 剣閣の防衛戦の時、何を考えていたのかなあと。多勢の敵を前にして不敵に戦鬼となる姿も浮んだのですが、困惑もあったんじゃないかと。(07.03.14)