ずあそび。




 蒸せるような暑気の最中にも、日々軍事調錬が休まることはない。 まして、この国は三国の中でも最弱であることは、文武上層部の常識でもあった。 それでも尚、国是ゆえに、中原の数倍以上の国力を誇る国と干戈を交えねばならない。
 ならば、兵の個々の能力を鍛え、生え抜きの軍団とするしかない。



 蜀の夏は暑い。
 日差しが強いわけではない。それならば、天水の方がよっぽど陽の光を浴びていた。

 息苦しい。皮膚を温く柔なものが纏わりついているような。湿った汗が乾きもせず、いつまでも張り付いている。
 息苦しい。暑い、というよりも熱い、と思える重い空気の圧迫感だった。


 それは姜伯約が初めて体験する亜熱帯性の夏だった。


 それでも、へばることがなかったのは、彼の気の強さの証しとも言えるだろう。

「本日はこれで終了だ。」

 魏文長の声が僅かに遠のきそうな意識の端に届いた。

 ――情けないな。

 淡々と姜伯約は己の状況を省みた。
 体力に自信はあったが、環境が変わってこの様では、魏に残っていたとしても、各地を転戦する将とはなれまい。

 大きく息を吸うと、馬上で胸を張った。
 中堅くらいの武将は気付かなかったが、百戦錬磨となってくると、新参の将の空元気に勘付いたらしい。


 確かに、今日の暑さは格別だった。
 本来なら、軍列を乱す事なく帰投するところだったが。

「折角、川縁にいるのだ。たまには『水練』も悪くなかろう。」

 事実上の水遊び解禁である。兵は血気盛んな若者も多い。 魏文長の一声で、歓声を上げると甲冑や諸々を脱ぎ捨て一斉に冷たい流れへ飛び込んだ。

 張伯恭も普段の厳粛な仮面を脱ぎ捨て、上半身裸になると水に飛び込んだ口である。 正直、今日の暑さにはかなり参っていたのだ。水の清涼さを存分に彼は楽しんだ。
 この川は思ったより深いな…と思いながら岸辺に目を遣ると。

「?伯約殿は水浴びをされないのですか?」
「い、いえ、某はちょっと…。」

 強気の彼にしては珍しく、目を逸らしている。
 その背後から。

「何をしとるか、若いもんが。」

 問答無用に魏文長は及び腰の姜伯約を川面へ突き落とした。

 一際高い水柱を立てて、姜伯約は川へ落ちたが、なかなか浮いてこない。
 さすがにおかしいと、陸の木陰で涼んでいた者たちも、魏文長の周りに集まって来ると。
 ぎゃっ、という一声と共に張伯恭が一瞬沈み、再び浮かんで来た時には、 蒼白な顔で噎せている姜伯約がその背中にしがみついていた。
 一同が胸を撫で下ろす中、魏文長は、ふむ、と合点が行ったのか、苦笑いをしながらいった。

「そうか、阿維(=維ちゃん)は泳げなんだか。」

 顔面蒼白ながら、ぎろっと殺気を込めた視線を魏文長に送り、「ええ、全く。」と姜伯約が返事をする。
 無論、その場にいた者たちは、一瞬にして極寒の地に立った気分になっただろう。

 魏文長に悪気はないはずだ。ただ、生意気だが有能な新入りがカナヅチだったという事実が意外だっただけだろう。 それで、ちょっとからかっただけなのだ。
 問題は、彼がその手の冗談の加減を知らなかったことと、その笑顔が皮肉にしか見えないという点にあった。

 当然、姜伯約は嘲笑われたと受け取った。 常に背伸びをしてきた彼は自尊心も並以上だったのだから、子供扱いされれば腹の虫が収まろうはずもない。 相手が、蜀第一の将であっても変わらない。ただ、その事実は受け止めざるを得ないので黙ってはいるが。

「…お取り込みの所、大変恐縮ですが、某はそろそろ水から上がりたいのですが。」

 この場合、溺れかけている姜伯約の命綱にされるという最も不幸であるはずの張伯恭が、冷静に休戦を提案した。







「………で、何が起こっているのかね?」

 数日後、諸葛孔明が軍事調練の視察に来て見ると、それ程離れていない川から、やたらと水柱が立っているのが見える。
 傍らに付いていた費文偉が事の次第を説明した。



「…泳ぐことができなくとも、戦に障る訳ではありませぬ。」

 精一杯の姜伯約の反論を魏文長は、今度こそ本当に鼻でせせら笑った。

「要は、阿維は水が怖いってことだろう。そりゃあ、丞相もかわいいかわいい阿維に怪我をさせたくないだろうしな。 まるで良家のお嬢様だな。その貌だし仕方ないか。」

 流石に歴戦の猛将は相手の逆鱗が何所にあるかが良く解っていた。 本人が、その女人のような風貌を相当気にしていること、意気地なしと思われること。 この二点だけは絶対に譲れないのだ。

「………。」
「その細腕で付いて来れると言うなら、泳ぎ方くらい教えてやらんでもないぞ。」
「……本当ですか。」

 疑わしげな表情になったのも無理はなかった。しかし、現実問題として、この外見に似ず気性の荒い青年にものを教える 度胸と根性がある者も、そう多くはない。
 魏文長なりにこの厄介事を引き受けるのは自分になるだろうと観念していた。 だから、多少の嫌味くらい言わせろ、という心境だったのだろう。

 かくして、奇妙な師弟関係の下。水練の特訓が行なわれている訳である。



「そうだったのか…。しかし伯約もまだまだではあるな。文長の挑発に乗ってしまうとは、ね。」

 白羽扇をゆったりと扇ぎながら、表面上の笑顔を見せると、諸葛孔明はその場を通り過ぎた。



 さて、一番不幸だったのは誰であったのか。












 水遊びがしたいのはむしろみなとです。姜伯約は蜀に来るまでカナヅチだったと信じているのはみなとだけですか。
 魏文長と、姜伯約の仲はそれ程険悪ではなかったと思います。おなじ武人同士だし、結局は姜伯約は諸葛孔明の後継者というより 魏文長の後継者という方がしっくり来るんですよね。政治面に介入しなかった、漢中の軍を掌握していた、 文官に忌まれたというあたり。
 ただ、お互い負けん気強いから、どちらかと言うと対等な競争者というあたりが一番しっくり来るのでしょうか。(06.08.15)