ようてすとも。




 苦心して学徳をつみかさねた人たちは
 世の燈明と仰がれて光りかがやきながら、
 闇の夜にぼそぼそお伽ばなしをしたばかりで、
 夜も明けやらぬに早や燃えつきてしまった。






 玄武が幾度も聳え立つ山々に己の躯を投げ付けているのではないかと思わせるような、風の塊が吹き荒ぶ夜半。

 その夜は珍しく寝付きが悪く、何度か寝返りを打つ内に、半眼ながらも脳漿の方が完全に覚めてしまった。湧き水のように止まることを知らぬ思考が流れ出せば、もう寝床で身体を丸めていても意味はないと燭台に一つ灯を入れた。
 他の者が目を覚まさないようにするには一つが限度だった。
 だがこの暗闇では一つの光だけでも眩む程だと、夜目の利く羊叔子は感じた。



 滝壺に落ちるかのような、颪の絶叫は今夜は已みそうになかった。

 平南将軍としてこの地に立つ自分を疑問に思ったことはない。
 晋と呉、最早天下にはこの二国しかなく、どちらの手に果実が零れ落ちるのか、その趨勢を計る最前線に立てる人材が数多いる筈もなく、そして、羊叔子は自身がその重責に耐えられないと考えたことはなかった。
 彷徨と遍歴の果てに辿り着いたこの地が、やっと自分の才に意味を与えてくれたのだ。同時に“理解者”を得た。

 ただ、それが呉の将軍であった、ということは飄然とした彼には些細なことだった。



 針の落ちる音すら立てぬよう細心の注意を払いながら、棚の中から中身が大分少なくなった酒瓶を取り出し、愛用の杯を手に、筵を敷いた床に座り込んだ。
 少々乱れた夜着に構いもせず身体を解すと、酒瓶に手を伸べる。
 酒瓶は、晋のように芥子の花を思わせる繊細な意匠が施されては居らず、どこかおおらかであり発展途上に有る文化の熱を感じさせた。尤も、それは羊叔子の贔屓目なのかもしれない。






 今宵またあの酒壺を取り出してのう、
 そこばくの酒に心を富ましめよう。
 信仰や理知の束縛を解き放ってのう、
 葡萄樹の娘を一夜の妻としよう。






 酒は、病で臥せっていた対岸の呉将が、こちらが煎じた薬の礼に寄越したものだった。
 羊叔子は躊躇いもせず、携えてきた呉の使者の眼前で酒を注ぎ、一献飲み干したのだった。但し、その時には味など判りはしなかった。

「衆目集まる中で味わえるほど、私も肝は据わっていないよ。」

 溜息混じりに、二、三の腹心には本音を漏らした。

 行き交う使者と蠢動する間諜。戦線の膠着による奇妙な“善政”。相対峙する中での消耗戦。
 最前線とはいえ干戈を頻繁に交えているわけではない。だからこそ、敵は外だけではなく内にも深く根を下ろす。

 もし、諸将が揃う使者引見の場で贈られた酒を飲み干さなければ何が起こっていたか。

 呉との仮初めの“友好”の断絶。――それ以上に軍内に走る亀裂の方が深刻だっただろう。ここぞと京洛に注進に及ぶ輩も居ろう、強硬論と穏健論の対立も調停のしようがなくなる。決して磐石ではない自軍の実情に考えが及べば、あの場面では飲み干す以外の選択肢はなかった。そんな思惑ばかり先行している状況で、美酒だの不味いだのあったものではない。

 毒酒でなかったのは幸いだった。

 身命を国家に捧げているとはいえ、羊叔子とてここで死ぬのは勘弁したいと正直に思っている。
 陸幼節も、なかなかに食わせ者だ。
 お互い、死なれては困ることは判っている。そういった呼吸が巧く合う敵手というのは幸甚だ。背後との呼吸にずれが有るところまで似なくてもよかろうに。





「いや、それとも矢張りこれは毒を仕込まれているかな。」

 唸るような風の為に、戸を開け放ち、月見なり星見なりを愉しむこともできず、蛍のように頼りなげな火影の幽玄を眺めるしかない。
 それでも、目を細めながら乾いた唇を湿すように白く濁った仙水を嘗める。洛陽で目にする澄んだ色でもなければ切れるような芳醇さもない。
 呉国でも最高級の品だと判るが、混ざり物はまだ多くどこか猥雑なものがある。



 比較すること自体、馬鹿げたことだ。
 浅ましく権勢という名の腐肉を奪い合い、清音が宮城に響かなくなっているのは晋呉お互い様。

 絡み合い解けなくなった蔓草を巧妙に装飾するのが洗練であり、直截に、衣食振る舞いにその様々な雑音が浮かび上がることが野暮だと言うなら、はたしてどちらの罪が重いのか。

『将軍は、薄化粧の女が好みなのでしょうな。』

 二言目には左伝が、と論争を挑んでくる杜元凱がさして面白くも無さそうに指摘したことを思い出した。

『昨今は厚化粧が流行ですよ。嗜みだけは心得ておくべきです。』
『痛み入る忠告だね。』
『薄化粧どころか、“彼女”は素肌すら晒しておりますな。』
『判っているよ……天帝の寵は失われて久しい。』



「矢張り、毒だな。」

 酒瓶のざらりとした手触りを指先で愉しみながら独語する。その大振りな文様といい、郷愁を誘うような柔らかな酒の濁った色と味といい、羊叔子の好みを把握されているとしか思えない。
 内通を疑うのは簡単だが。

「どういう頭の構造をしているのだ、あの男。」

 陸幼節が聞けば吹き出すことの間違いない台詞を呟く。彼なら、寧ろ私が聞きたいと言うだろう。そもそも、先に探りを入れて火種を投下したのは誰なのか、と。

 お互い、半端な毒薬と毒酒を、届け合ったということだ。

 暗殺する気はない――自らの地位の保全の為にも敵が必要なのだから。
 我が国への亡命を勧める気もない――無意味だと分かっている。それが忠ゆえかは判らないが。



 敵手でなければ、友と呼ばなかった。



 歪みがなければ、友誼は結べぬものかも知れぬ。かの李陵と蘇武の故事のように。

 際どい橋を渡りながらも、時局を弁えず交歓を求めようと軽やかに足を踏み外しかけるような人間が羊叔子だった。万象の表裏を醒めた目で見る術を知りながら、己を偽ることができない。

『それが、甘いというのです。』

 ああ、分かっているよ、元凱。それでも私は好みの酒を飲み、嫌いな人間に舌を出し、気に入った人間には笑顔を向けるよ。それが当たり前じゃないか。

「……深夜に酔うには、量を過ごしたかな…、」

 もう、風伯の囁きも耳に届かなければ、灯火の油はとうに切れていた。
 再び寝床に戻るのも億劫で、筵にそのまま身体を倒した。浮遊する意識のままに腕を彷徨わせ、ことりと床に落とす。
 指先が酒瓶に触れ、均衡を失った入れ物は乾いた音を立て冷たい床に転がった。最後の一献と未練がましく残していた酒は総て床が呑み込んでしまった。

「ははっ…あぁ、もう酒姫には慰めてもらえない……。」

 どこか満足気に酔眼を綻ばせ一言二言呟いたが、言葉としての形象を取らないままに、穏やかな寝息へと包まれていった。






 愛しい友よ、いつかまた相会うことがあってくれ、
 酌み交わす酒にはおれを偲んでくれ。
 おれのいた座にもし盃がめぐって来たら、
 地に傾けてその酒をおれに注いでくれ。












 お話の中で引用した詩はオマル・ハイヤーム『ルバイヤート』から取りました。時代も国も全然違うッ。中国にも酒を詠った詩は多いですが、これ、というものに当らなくて…。李白の詩と悩みましたが、退廃的な感じが良かったので、こうなってしまいました。
 羊叔子と陸幼節のお中元(違)は一度はお話にしてみたかったのですよ。この二人の友誼って同国人同士としては成り立たなかった気がするのですが、何となく。
 どうでもいいですが、朝起こしに来た従者なり麾下の将軍なりは卒倒しますよね、床に転がってすやすや眠る総司令官どの。(07.03.11)