あかいも。




 誰かを憎み敵と狙い続けることができることは、或いは幸福なのではないか、と甘興覇は思う。



 それは激しい戦闘が行われた夕暮のことだった。
 戦死者の骸から追い剥ぐ者が出るのは、この戦乱の貧困にあって、それ程珍しいことでもない。
 天球まで血塗られたかのような赤黒い空の下を縫うように、屍を漁る烏が次々舞い降りる。 それら禽獣と争うように、人間も喰えるもの、売れるものを求めて、屍を漁っていた。
 それを浅ましいと唾棄する階級とは無縁だった。殿上の人々と市井の人々の深い溝は当たり前なものだった。
 甘興覇も多少は書を嗜んだとはいえ、遂に百家が唱えた思想をどれ一つ理解することはできなかった。 そして、支配階級が宝物のように大事にしている忠孝だの仁だのといった観念を己のものとすることは叶わなかった。

 顔や服を垢で真っ黒にした少年も群がる者の一人だった。
 痩せた腕、小さい身体、そして不釣り合いなほど大きくぎらついた双眸。牙を剥くように剥き出した歯も黄色くなっている。

「よう、坊主、実入りはどうだ。」

 甘興覇は気紛れに声をかけた。甘興覇の格好は、甲冑や鳴り物、装身具等を総て外し、水夫同然の身軽な姿だった。

「かっさらいやしねぇよ。」

 あからさまな警戒の素振りを見せた少年に、面倒げに手を振った。

「これ、親父。」

 少年は今まさに、はぎ取ろうとする屍を指差した。

「なんだ、形見捜しか。」
「違う、金目のモン、全部持って行きやがった。他人にくれてやる事ないだろ。…ち、くそ親父が、たいしたもん持ってねえや。」
「…誰が父親を殺した、とか仇、とか思わねぇの?」
「知った事かよ。殺された奴が悪い。金になるからって徴兵されて、一文も持って帰らなかったんだ。 仇討っても金になんねぇもん。喰えなきゃ、親父だろうと大将だろうと知るか。」

 甘興覇は、ちょっと少年から眼を外して、再び荒野を見渡した。
 何処からとも言えず漂ってくる腐敗臭。じわりとした暑さを感じ、早過ぎる死骸の腐乱もその所為かと納得もする。
 黒々と横たわる大地に、今どれ程の肉塊が折り重なっているのか。群がる鳥と人の揉み合う叫び。 一片の良心だとばかりに哀れな亡骸を運び埋葬していく、道教や西域から流れてきた新宗教の信者たち。

 何百という、名も無い、意味も無い、死の堆積。
 兵戸であれば、その死は戦か調練か。いずれにしても死ぬ為に生かされている人間だった。
 民戸や流民であれば、死因は数え上げれば際限がない。

 ちらりと、己を仇と付け狙う男の姿を脳裏に浮かべた。
 わかってんのか、俺らはこの屍の山すべての仇なんだぜ。同時にこの屍の山すべてのために仇をとってやらないといけねえ。
 ………そんなことができんのか?不可能だろうが!

 ははっと何やら笑いが込み上げてきた。それを不謹慎だと思う神経などとうに摩滅していた。



「それで?坊主、いつまでここで稼ぎを上げるんだ?」
「わかんない。次の戦が始まる前には、逃げる。」
「親父さんの死体は。」
「……運べない、から。俺だけじゃ。仕方ないよ。」
「次がいつおっぱじまるか、わかってんのか。」
「知らない。」
「じゃ、お前、死ぬな。ぐさりと。すぐ親父さんに会えるわ。」
「会いたくない!」

「会いたくない見たくない親父の顔なんて!どうせいつか会えるんだったらまだ見たくない!そういう約束だったんだ何があっても長生きするって!…俺、俺、まだ死にたくない、こんなんになりたくない、だから。」

 生きたい生きたい、いきたいいきたいいきたい、し・に・た・く・な・い!

 これまで、いい生活も、旨いものも、綺麗な服も、何も知らない童であっても生きたいと思うのか。何のためかも知らずに、それでも生きたいと。獣のような一生であっても、それでも。それほど生きたいという願望は、人間の奥底に張り付いて剥がれぬものなのか。

「だったら。」

 甘興覇は僅かに躊躇ったが、その子供に言った。

「日が暮れるまでにできるだけあの城塞から離れろ。何が聞こえても、何が見えても、ただ走れ。暗くなっても走れ。それがたった今、生き延びる方法だ。」

 甘興覇は恐ろしく低い声で囁いた。

 夜襲作戦の漏洩の責任?狂いの生じた策の損害?
 ―――くそくらえ。

 甘興覇は奴婢ではないが、士人でもない。この黄土を這いずり上がって『人』となったものだった。
 壁の一穴、身中の虫がいたとて、揉み潰し、眼前の障壁を打ち砕くが覇業というものだろう。
 それが出来ぬなら孫呉も曹氏の旗の下に消えゆくのみだ。

「行け。」

 まごついた子供を一喝した。後は、彼自身の運と能だ。








「仇討ちを公言できるのは幸せな部類に入るよなあ。」

 夜襲の成果である城壁の上で、隣りに立つ呂子明に甘興覇は声をかけた。
 黒い大地はうっすらと桃色に染まり、地平の彼方に日輪が僅かにその姿を見せ始めていた。 闇に埋もれていた、城砦内部と周辺の大地のどす黒い惨状が白日の下に晒されるのは時間の問題だった。

「公績の前で言うなよ。」
「わかってら。」

 子供がどうなったかはついに分からなかったし、甘興覇には興味がなかった。それは子供だけが知っていればいいことだった。
 昨日の赤い雲はもうどこにも見当たらなかった。










 先に言っておきますが、凌公績に恨みがあるわけではないですよ?ただね、凌操だって武人である以上、数多の人間を殺しているわけで…例の山越族とか…。史書は読書人の視点で書かれているというのはまあよく言われることなんですが、これは『孝』として書かれた逸話というなら断固反対。むしろ侠気でしょうね…凌公績も若くして当主となったのだから、家中をまとめる為にも打倒甘興覇と言うしかなかったのかもしれませんが。
 や、仇討ちというものはメビウスの環みたいなものではないのかな、と思ったので。(06.09.21)