げのまえ。




「よ、玄ちゃんお疲れさん。」

 新年の挨拶回りがやっと終わって、やれやれと自邸に戻り部屋に入ると、既に馴染みの同じ顔が二つ並んでいた。
 声を掛けて来た方は普段の着崩しではなく、曲がりなりにも、士人としての格好をしていたが、 だらしなく肩肘を付いて寝そべっていた。
 一方、彼の兄は普段通り、隙のない姿で、宛がわれた敷き物の上で陳家の蔵書を読んでいたようだ。

「長文先生の名代も大変だったんじゃないか?」
「そうなんだよ。聞いてくれよ景ちゃんー。」

 ぐったりとして陳玄伯は荀景倩に凭れかかった。



 それも総ては陳長文が魏国の重鎮であるが故である。 陳玄伯も、尋常ではない文武の才の持ち主とはいえ、 起家からの順調な滑り出しに、現在の陳家の隆盛の影響がなかったとは言い難い。
 一方の荀家といえば、荀景倩の官僚としての出発点を見れば一目瞭然である。 その博学と至孝を讃えられながら、評判とは釣り合いの取れない地位に甘んじている。

 陳玄伯は、あまりの落差にそれを恥じ、自分の仕官の祝いを言いに来た荀景倩に顔を合わさなかった。

「玄ちゃんみたいに、身体が頑健じゃないし、激職には向いてないから、この位で丁度良いよ。」

 荀景倩本人は韜晦しているが、その本心まで見抜くには、陳玄伯は真っ直ぐでありすぎた。
 そして、この結果に九品中正の制度を立案した陳長文は、煮くりかえる思いもあっただろうが、 表面上は何事も順風であるかの如く装っていた。
 荀奉倩は官途には就いていない。老荘の徒を自認する彼には、現世の名誉に何の関心もないかの如く装っている。

「景ちゃんだけじゃなくて、俺も虚弱体質なの。ガキの頃に粗食生活続いてたんだ、玄ちゃんみたく発育良い訳ないだろ。」

 社稷を保つとか、周代の御世の実現とか、面倒なことは元気な奴等に任せるよ、と嘯いている。



「で?新年早々、何でうちで寛いでいるんだ?」
「妻の付き添いでね。」
「景ちゃん…。」
「だからぁ姉上に呼ばれたの。ここ数年ずっとまともに新年の祝いが出来なかったんだから、見逃してくれよー。」
「…あ、…そう、だったな。ごめん…。」

 近年、相次いで荀景倩と荀奉倩は兄を亡くしていた。また、亡父の第一夫人だった唐氏も失っている。服喪が長く続いていたのだ。

「そうだよな、母上も随分元気を無くされて…。」

 陳玄伯の生母は荀文若の長女である。 そのため、二人とは叔父甥の関係にあるが、歳が近いせいか友人のような付き合いをしている。 また、それを荀夫人も弟達に願ったのだ。
 首を項垂れてしまった陳玄伯を見て、さすがに言い過ぎたかな、と荀奉倩が荀景倩に目を向けると溜息が返ってきた。


「玄ちゃん、そろそろ長文先生の来客も落ち着いただろうし、顔を出して来たら。」
「そ、そうだな。うん、行ってくる。今夜は二人とも泊まるんだよな?」
「ああ、姉上が俺たちの嫁さん手放さないからなあ。まあ、俺の妻は美人で見てても飽きないし、気立ても良いしね。」
「はいはい、奉ちゃんの奥方自慢が始まったら止まらないから後でね。行っておいで、玄ちゃん。」





「…景ちゃん、あの話、本気なのか。」

 先程とは打って変わった調子で荀奉倩は荀景倩を見据えた。

「本気だよ。長文先生も今日、玄伯に話すはずだ。慶事だろう?」
「長文先生も、景ちゃんも、正気じゃない。」

 不思議そうに、荀景倩は己とそっくりな弟の顔を覗きこんだ。

「何故?同姓娶らずの原則に反してはいないし、何よりも、婚姻とは両家の利害の上に成り立つものじゃないか。 我が荀家においても例外は奉ちゃんくらいだよ。大哥も安陽公主を娶ったのは権力の安定化を願ったからだし。 ……尤も、裏目には出たけど、甥たちはその血のおかげで順調に要職への道を歩みだしている。 私も、姉上の子との婚姻によって、陳家との繋がりを得たことは将来に活きてくるだろう。 それを強固にしようという、それだけの話だよ。」

 まるで当然の如く、普段と異なり饒舌な兄を荀奉倩は別のものを見るように眺めた。
 狂っているとしか思えない。
 それとも、この狂気は幼い雪の日から兄の奥深くで始まっていたと言うのだろうか。

「叔父と姪の婚姻は忌まれることくらい、自分の経験で理解しているだろう。」
「…世評などいい加減なものだ。何も知らない者には言わせておけば良いよ。」
「長文先生からこの話が出たのか。」
「そうだよ。こちらも快諾した。――ねえ、奉ちゃん、おかしいのは私だろうか、長文先生なんだろうか。」

 荀奉倩は何も答えられなかった。





「………今、なんと仰いましたか、父上…?」

 陳玄伯は、己の耳を疑った。確かに、そろそろ自分も身を固めることについて話があるだろう、という予想はしていた。 しかし、その相手が。

「景倩の長女が適齢に達したら、妻とするがよいだろう。 十年ほど待たねばならないが、よく知った仲でもあるし悪い話ではないと思う。 景倩の了解も、泰がそれで良いなら、ということで得ている。」

 父母の言は絶対である。この時代に、婚前の恋愛といったものは存在しない。
 だからといって、陳玄伯の記憶が正しければ、荀景倩の娘は片手の指にも満たない年齢のはずである。
 しかし、それ以上に。

「ち、ちう、え…。血縁の問題は…如何なさるのです。」

 陳長文は、荀文若の長女(荀氏)を娶っている。そして、その間にできた娘(陳氏)を、荀文若の子息である (荀氏とは異母とはいえ弟である)荀景倩が娶っていた。その上で、荀景倩と陳氏との間にできた娘と陳玄伯が婚約せよという。
 陳氏と陳玄伯は同母であるにも拘らず、だ。

 ぼんやりと、陳玄伯は荀奉倩が言っていたことを思い出した。



「景ちゃんはさ、凄く綺麗だと思うよ。とても、とても純粋に…狂っているんだ。」

 二人で樹の上に登って、生い茂る葉にその身を隠し、煌びやかに飾り立てた魏国の高官の列が通り過ぎるのを、荀奉倩は 鼻で笑って見下していた。巷で流行り始めている老荘思想に、荀奉倩は傾倒し、論客として頭角を現し始めているということは、 陳玄伯の耳にも入っていた。

「ああ…でも、もう一人、純粋に狂っている高官がいるよな。」
「奉ちゃんは法螺が上手いよな。狂っている人間が国政を任せられるものか。」

 その頃、陳玄伯は、国政を預かる人間に瑕疵はないと、本気で信じていた。
 荀奉倩は、片眉を上げる癖を見せ、噴出した。彼は早くから擦れていたので、その幼い見解が妙に気に入った。

「わっ…笑うな!」
「い、いや、わり…ぶっはっは…。」

 本気で機嫌を損ねた陳玄伯だったが、急に黙った荀奉倩をなんとなく振り返ると、ちょっと遠くに視線を泳がせていた彼は、 その視線を合わせてきた。

「巻き込まれんなよ。…その二人の狂気に。」



 狂気の高官が誰なのか、その時の荀奉倩は言わなかったが、今ならはっきりとしていた。 自分の目の前にいるではないか。
 執拗なまでに、荀家との繋がりを求め、禁忌を踏み越えようとしている。

 荀文若とは、何者だったのだ。

 父から、これほど冷静な判断を失わせる、荀令君とは。
 荀文若の喪が明けて後、荀文若の夫人方に連れられて幼かった荀景倩、荀奉倩は潁川に戻ったという。 夫人の希望としては、末の子二人だけでも、隠者のようにひっそりと暮らして欲しいという願いが有ったようだ。
 それを曲げても、父は二人共を、せめて一人だけでも手元で養育することを望んだという。
 やっと願いが通り、一人荀景倩がやって来た時の母の驚きは良く覚えている。 後で聞くと、「あなたのお祖父さまに、瓜二つですよ。」と教えてくれた。

 それでも。

 荀文若はもういないのだ。

 この中原に存在しない者に、何故、生者が縛られなければならないのか。

『二人の狂気に、巻き込まれるな。』

 それでも、荀奉倩の警告の声は、最早遠くなっていた。 自分は、解っていて、それでも「諾」としか言うことができないのだ。
 自分も、もうその渦中にいるのだ、逃れることなどできない。

「……わかりました、父上、その話、お受けいたします。」

 陳玄伯は頭を下げた。頷いているであろう父の顔を、彼は恐ろしくて見ることができなかった。 新年の寒さにも拘らず、陳玄伯は掌に熱い汗が滲んでいることに気が付いた。



 華やかな新年の宴に花を添えるように、雪がひとひらふたひら、ひらり、ひらり、と…。












 完全に近親婚ですよね、これ…。『三国志』で荀景倩のことを陳玄伯は「舅」と呼んでいるのですよ。 ですが、この漢字が曲者でして、1.妻の父、2.母の兄弟、3.妻の兄弟と三つの意味がありまして、 ちくまの訳は1.の方だったりするのですな。なんてオイシイ訳をしてくれたんですか。たぶん、事実は2.なんだろうけど…。
 で、問題は荀景倩ですが、こちらの奥方はみなとがはっきり覚えている資料の中では解らないままです。 ですが、うろ覚えーでどっかで陳長文の妹だか娘だかを貰っているという記述があったような気がするのですが…。 ならば、己の萌を優先するのみ!…近親相姦ネタが嫌いな方はすみません…。
 荀奉倩は「狂っている」と評していますが、ちょうどこの頃から、官僚貴族の力が無視できないものになりつつあったはず。 王侯派と名士層の亀裂が深まり、司馬氏が台頭してくるのですねえ…。要するに、名士層の代名詞としての「荀文若」なわけです。(06.08.09)