かれおば




「ご機嫌をお伺いに参りましたよ、臨淮公。」



 乾ききった暑さの始まろうとする季節、荀景倩は床に臥した。

 元々、先人に倣ったのか、心底からの希望だったのか、数名の者と晋建国当初より自身の高齢と病身を理由に、朝政から身を引くことを奏していた。
 図らずも、十年来の望みが叶った、と云うべきか。

 当初は只々静かに過ごし、体調さえ許せば庭園で鮮色を綻ばせ始めた花を愛でながら古府を吟じるという、常に傍らから礼経の書を手放さなかった堅物の姿からは想像も出来ぬ浮き世離れの様子も見せていたが。
 病状が悪化の一途を辿っていることを理解していたかのように、蝉が殊に甲高く鳴き始めた頃には、ぱったりとその白い痩身を隠してしまった。

 今は好んでいた香を焚き、あまりに眩い光を覆った寝室で、落下するような深い眠りと、夢に酔ったままの一時の覚醒を繰り返すようになっている。





 珍奇なことは重なるものらしい。



 荀公會がこの官舎に足を踏みいれたのが何年ぶりだったか、まして見舞いだという。
 荀景倩もその訪問を予期していたかのように意識を覚醒させ、箱庭に埋められた石に腰掛け、傍らの枯木に身を凭せ掛け待ち構えていた。

「見舞いの品には悩みましたよ。どんな名品珍品に手を尽したところで陛下や太子からの御下賜品に敵う筈もない。」

 荀公會は見下ろしている相手に隠しきれぬ死相を認めながら、残酷な会話を止めるつもりはなかった。



 どんな言葉の刃で弄ったところで、この族兄の閉ざされた鈍い精神に切っ先が届くことはない。
 お互い、皮肉も忠告も相手に響きもせず、露骨なまでに意志疎通の努力を放棄したのは何時だったか。
 そんな棲む世界の異なる者同士、利害だけは一致を見た時の喩えようのない不快感は、未だに荀公會の脳裏の片隅にこびり付いた侭だ。

「ですから、貴公に瓜二つの“華”を探して参りましたよ。」

 左腕に抱えた豪奢な紅い瑞鳥を刺繍した瑠璃の生地を、荀公會は流れるような優美な仕草で剥ぎ取っていく。躊躇いはない。幾重にも包まれた中から顔を出したのは。



 枯れ果てた花束だった。



 果実を飛ばすこともなく花のように咲いている綿毛をいくつも点けた、色褪せ痩せこけた腕のような茎。

「何も産み出さず、」

 荀公會は乾ききった“華”を一枝、二輪と身動きの殆ど出来ない荀景倩の膝へと落としていく。



 かさり。
 しゃらり。



 頬杖を付いた荀景倩は発熱で潤み異様に光を乱反射させる瞳を細め、荀公會の手から機械的に堕ちてくる“華”を眺めた。
 膝に枯葉を引っ掛け残るものもいれば、戸惑う儘に地に墜ち、散らばるものもいる。

「何も遺さず、」

 荀公會の目は魚の様に膜を薄く張り光も曇りも失せて行く。
 ただ鏡のように眼前の光景を映すに任せていた。

 最後の一枝も、僅かに目をくれただけで、感慨もなく手放した。
 最後の一枝は気紛れな温い風の戯れで、二人の視界をかすめてざらざらと舞い上がった砂混じりの埃と共に箱庭の隅へと流れていった。

「腐るだけだ。」


 荀公會は用事を済ませたかのように、“華”を散らぬよう包んでいた絹布を殊更叩いた。
 そこまでの動きを見届けて、やっと荀景倩は緩慢な動作で膝にしがみついた“華”を一枝手に取った。
 暫く物思いに耽っていたが。

 唇がゆったりと弧を描き、瞳の色は穏やかな生気を取り戻しながら、現世から足を踏みはずしかけている人間とは思えぬ仕草で一輪、華を摘み採った。白く枯れた“華”弁は緩く広げた掌の上で綿毛を震わせると、湿った風を待ち構えていたかのように掌から転がり、荀公會の履の先へと彷徨い飾られた。

「本当によく似ている。私にも。父上にも、兄上にも弟にも………。」

 愈々目ははっきりと意志を宿し、次々に“華”を摘み採りては時折気まぐれに吹き付ける風に散らしていった。
 身に纏う恬淡とした穏やかな空気は普段通りだった。世人が讃える一見誠実で控えめな表情も。

「何も産み出せず、何も遺せず、それが荀家の人間。誰もが種子を植え次代へ伝えるべき何物も持たず深山の影にただ、消えるしかない。例外はない、貴方もですよ。」
「………死に損いの戯言に付き合ってみれば半狂乱の緯とは恐れ入った。ふざけるな!」







 最近になって、荀公會は度々記憶を間探り、顧みることがまま、ある。


 族兄の享年を超えて後、荀公會は遂に帝の寵を失い権力の中枢から巧妙に外された。
 ただ高貴なだけの地位に彼の旺盛だった権勢欲が満足出来るはずもない。
 遣る方無い憤懣を抱えて宮廷より自邸へ戻ろうとした道すがら、塵垢にまみれ骨と皮だけしかないような幼女が干からびた花を差し出したのだった。
 生花であれば、瑞々しい物しか商品価値がないことも理解できないほどに幼いのだろう。

 荀公會は何の粋狂かその枯れた花を、彼には端金だが明らかに法外な値で買った。


 牀で寛ぎ、枯れた花弁が脆く崩れて行くのを眺めながら、あの最期になった見舞いを想う。

「今となれば判らぬでもない、が。」

 激昂して立ち去ろうと背を向けた荀公會に、荀景倩は『卿にしては気の利いた見舞い品ですよ。』と言った挙句に感謝の言まで続けた。
 居た堪れなくなって表情も確認せずに飛び出したのは、若さ故に老獪さが足りなかったのだと思う。

「成程、所詮日陰に棲まうしか能のない清流の一族など。」



 かさり。
 しゃらり。



 不確実な権威の傍らに、常にありても。

「埋め込むべき種子を自ら捨てた我等……か。」



 枯れた花弁は、一晩と俟たず散り果てた。





 荀氏は西晋から始まる度重なる戦乱の中、政治の表舞台からその名を消して行く。












 曹氏の隆盛には荀文若と荀公達の二荀という二人の存在が欠かせませんが、司馬氏となると荀景倩と荀公會の二荀が出て来ますね。前者に対して後者の評価は散々ですが。
 晋代二荀は相当にそりが合わなかったのではないでしょうか。いえ、特に仲が悪いようなことが正史に書かれている訳ではないのですが、性格がどう見ても…。そういう人間関係のほうが小話にはもってこいなのですけどねー。(極悪。)
 相変わらず勉強不足を露呈しておりますが、「族兄」の使用方法は合っているのでしょうか。同じ一族の年上の人、という意味かなーというつもりで使用しているのですが。
 そろそろ本気でインプット量をなんとかしないと……(とりあえずちくまの三国志と晋書…←そこからか。)(07.02.19)