われた。




「私を怨んでいるのか。」

 帰るところが他にあろう筈もないのに、時折、ふらりと姿を消す異母弟を案じる言葉にしては重すぎた。羊叔子は曖昧な笑みを刻んだまま、頭を振り自室へ戻った。



 それが、異母兄と交わした最期の、会話らしきものだった。








「ははうえ、ははう……。」

「弟弟、ははうえはどこ?」



 耳を衝いて離れないのは、まだ幼かった二哥のか細い声だった。

 流行り病は度々あった。羊家は辛うじてそれを免れていたが、今回はその負債とばかりに長男と次男に牙を剥いたのだった。
 私の実母である蔡氏は、実子を捨て、血の繋がらない長男の治療に全力を傾けた。身体の弱い彼女には、それが限界だったのだ。



「ははうえ、あにうえがよんでる。」

 湯を取替え、薬湯を煎じ、と休む間もなく動き回る華奢な母の裳裾に取り付き、分別を理解するには幼すぎた私は、赤い指先で二哥の部屋を指差した。
 母は、僅かに目を上げたが、再び背を向けると長兄の部屋へと爪先を向ける。

「ははうえ。」

 私は行かせまいと必死で裾を掴んだ。花鳥を織り込んだ美しい母の着物はあっという間に涕と鼻水で汚れてしまった。
 あの時、自分が何かを理解していたわけではない。ただ、掠れた声で呼んでいる二哥の元へ母に行って欲しくて、いつも自分のお願いを聞いてくれた優しい母が険しい表情で立ち去ろうとしたのが悔しくて、火が点いたように泣きじゃくったのだ。

 驚いて飛んできた乳母と家宰が、暴れる私を母から引き剥がした。
 暫し呆然としていた母の表情を読むには、あまりに複雑な感情が入り混じりすぎていたのだろう。祖父や伯母ほどではないにしろ、絃楽の才に優れていた母の情は豊かであり―――謎めいた部分が多かった。
 そして、私はその妙なる繊細な旋律を読み取るにはあまりに幼すぎたのだ。



「ははうえなんかきらいだ!!」



 癇癪を起こし喚いた言葉に、僅かに母の背中が震える。乳母が窘めても、譬え折檻されようとも、収まる筈もなかった。



「だいっきらいだ!ははうえのせいだ、ははうえの……」



 口を塞がれたか、再び泣き声に飲み込まれたか、もう記憶も定かではないが。子供ゆえに何を予言しようとしていたのか、空恐ろしくはある。それは明確すぎる未来の話だった。



 自分の投げつけた言葉は抜けることのない棘となって母をさいなんだことを知るのは、ずいぶん後の話だ。

 残酷な言葉を吐いたのも、ただただ、二哥の側にほんの少しいてほしかっただけだ。長兄は幼子の眼に充分大人だったから、自分と歳の近い小さな二哥の近くにいても構わないではないか。

 それは、恐怖だった。
 自分も同じように棄てられるのだという。

 二哥はかすれた声でひたすらに母を呼んだ。
 私が慣れぬ看病で薬湯を溢しても気付きもせず、食が喉を通さなくなっても。
 ひたすら、母を。

 燭の炎が青ざめ消え失せるまで、か細い声は、骨と皮だけになったひびわれた指先は、

 最期まで。

 閉じられなかった黒曜石の眼に映っていたのも、遂にこの時まで姿を見せなかった母の後ろ姿だったのだろうか。





「恨んでいるのだろう。」





 確信に満ちた低い声音。

 二哥の喪が明ける頃には、表情を取り繕うことを覚えていた。
 既に嫁いでいた姉が、実子を喪ってから病みがちになった母を見舞った時も、その膝に取りすがることはなかった。

 母を、断罪する訴えもしなかった。

 一方の長兄は、実母以上に孝養に努めるようになった。自分を救うしか手だてのない婚家で生木のように心胆を裂かれた母を懸命に抱きとめようとしていた。
 それはお互いの傷を舐めあうような、共生の関係だった。

 あげまきを解き、加冠しても、その隙間に羊叔子の入り込む余地はなかった。
 ただ、型通りの孝を積むしか。そうやって居心地の悪さを誤魔化し、どこか冷え切っている自分の感情を悟られないように風に誘われるままに独りになる。

 誰もが陥穽に落ちたまま、その身を引き揚げる術を知らなかった。昏い場所で深まるばかりの溝を只傍観していたのだ、自分も、母も。


 ただ、ひとりを除いて。



 何もかも、遅すぎた。否、気付くのが遅すぎたのは自分の罪だった。長兄は届かぬ声をそれでも発し続け、空を切るばかりの手を伸ばし続けていた。



「もう、怨みなど忘れてしまっていたのに。」

 その声はもう届かない。滂沱の涙も地を潤すしかない。
 羊叔子は、後悔の残酷なまでの意味を、躯に刻み込むしかなかった。










 ち、力不足……!伝の後ろの方に載っている逸話が元ネタです。いくらでもおいしくいただける話だと思うのですが、羊叔子は家族の縁が薄いんじゃないかなあというイメージで書いたら修羅場になってしまいました…。それにしても、当時、後家さんで嫁ぐと本当に苦労したんだなあと思います。(08.05.20)