みなみのめ。




 ぱた、た。ぱた。ぱたた。

 とぼとぼと、平坦な農道を進んでいた騎乗の武官が空を仰いだ。
 ただ一騎、供も連れずに馬の脚に任せるままに、曇天の下を俯きもせず。 現在の姜伯約の総てを物語るような、それは一幅の絵とも云えた。

「雨か。」

 徐々に色の濃さを増していた雲は、自身の重さに耐え切れなくなったとでも言うように、低く、低く姜伯約の頭上に迫り、涙を流そうとしていた。果たしてその涙は、滂沱たるものか、零れ落ちるほどのものか。
 聞く者が居る訳でもないのに、「降るのか。」と確認するように呟く。


 見渡せば、土地の者の姿はとうに視界から失せていた。 この蜀の大地で生まれ、育まれた者には特殊な勘が備わっているのだろう、と姜伯約は思っている。

『雨には、匂いがあるんですよ。』

 降る時は、鼻が教えてくれるんです。
 兵卒がそう言っていたが、姜伯約は未だその匂いが判らない。雨の匂いも井戸水の匂いも、彼は区別が付かない。
 そのため、彼は何時も独り、雨の中で濡れそぼることになる。


「風ならいくらでも読めるんだぞ。」

 強がったところで、この一年の大半が曇天の地では無意味だ。大体、この地に来てもう何年になるのか。
 自分の躯の奥に染み付いた『天水』を感じるのはこんな時だ。
 天の水。まさに雨のことだというのに、そこから来た自分が雨の気配を感じ取ることが出来ないなど、皮肉なものだ。 これが笑止千万というやつか。



 霧のような、細かい雨が降ってきた。薄い膜を重ねるように、彼方の風景を白と黒の薄墨へと変えてゆく。

 馬が、躯が冷えることを嫌い、しきりと首を振り訴える。この時期の雨は、放って置くと骨まで冷えてしまう。馬にとっては生死が係ってくるのだ。
 それと知りつつ、姜伯約は鼻を鳴らす馬の首筋を撫で、それを宥め賺す。

「もう少しだけ……。」

 悪態はついているものの、姜伯約は雨が好きだった。土砂を押し流すほどの河の流れを作る豪雨も、叩きつけるような雷雨も、今日のような包み込むような霧雨も、――妻だった女を思い出させるような慈雨も、総てが好きだった。
 だから、どんな雨であっても、彼はその身を雨天の下に晒すことを好んだ。
 空を見上げ、水滴が落ちてくる瞬間瞬間を眼に焼き付けるように見た後、瞼を閉じ、全身を洗うように雨水を浴びる。 その心地良さは、恍惚というものではなく、己の中の刃を研ぎ澄ましてゆくような、凍えた快感があった。



 暫く当ても無く、歩を進めていると、丁度良い具合に雨宿りができそうな大樹を見付けた。
 馬を雨が当らぬよう太い幹に繋ぐと、姜伯約は無造作に四肢を投げ出した。全身が直接降雨に晒される。
 色を失った空に飽きたように、姜伯約は眼を閉じた。





 そういえば、太守に城への帰還を拒絶されていた日も、晴れていた。
 街亭の戦いの混乱の中、天水へ戻ることも叶わず、蜀へと落ちていった日も、手に届かないほど高く青い空だった。

 そして、五丈原。
 墜ちたという星こそ見なかったが、無窮の黒い空をどこまでも細かな星が敷き詰められていたことを覚えている。
 その後の混乱の間も、嘲笑うかのように太陽が照りつけていた。

 錦馬超に冀県を荒らされた時も、父が戦死したとの報を受け取った時も。

 いつも。
 晴れて。

 だから?



 太陽は、嫌いだと?






「…………貴方、いい加減にして下さいよ。」
「冷たい。」
「何を今更。そんなに濡れ鼠になっているのですから。」
「でも、この冷たさは歓迎しますよ。甘露じゃ無いですか。」

 姜伯約は眠りを妨げた費文偉の姿を眼に留めて、濡れた唇を舐めると、ほんの少し目を細めた。 費文偉が何時の間にか眠り込んでいた姜伯約の半開きの唇に流し込んだのは、かなり強い白酒だった。
 一体誰がご注進に走ったものか、車を待たせ、従者に傘を持たせて、費文偉が寝転んでいる姜伯約を覗き込んでいる。

「いつもいつも…。この雨の中迎えに来る身にもなってください。」
「放っておいていいですよ、いつものことですから。」
「あのね、貴方は自覚が無いでしょう。蜀軍の中枢であるという。誰もが心配していますよ。」
「好奇の目と共に、でしょう。」

 費文偉は、文官の中でも肝が据わっている。だが、それを思わせないほどに、普段は飄然としているし、眼差しから表情を窺わせない穏やかな笑顔は彼の社交術を有利に運ぶものにしている。その彼が、僅かに眼を怒らせている。

「姜将軍はいつまで天水のお方なのか。」
「――血肉にまで織り込まれたものを、総て捨て去ることが、貴方にはできますか。」

 だから、雨の中、泥濘に身を埋め、骨身を溶かして生まれ変わろうとでも言うのですか。蜀の骨に、蜀の血に、蜀の肉に。 費文偉には姜伯約の苦悩が今一つ理解できずにいた。
 確かに、彼は異質だった。初めは降将が持つ戸惑いのようなものだろうと、さして気に留めてはいなかった。姜伯約が降った、というより巻き込まれた事情は特殊と言えば特殊だったが、それも、乱世の常。誰もがその身を中華全土に彷徨わせていたのだ。昭烈帝然り、北の果てから流れてきたのだから。

 だが、姜伯約は異質のまま、現在もここにいる。

 苛烈さか、否。強烈なまでの上昇志向か、否。周りが見えなくなるほどの一途さか、否。

 その費文偉の思考も、半身を起こし覗き込んできた姜伯約の視線によって中断させられた。 見透かす目ではない。無関心を装った昏い色の薄い膜の向こうに、強い光が相手を射抜こうとしている。 爆ぜる様な激情を押し隠した、深い彼方の空の色。 その七色の感情を見抜くことは容易ではない。ただ、その空の色は常に、清々しい程に晴天であることだけは判るのだが。
 武官は単純だと誰が言ったのか。これほど解り難い男は文官でもそう居らぬ。但し、探るのは肚ではなく、この瞳であるのが少々厄介。


「また、小難しいことを考えておられる?」

 その色を見抜こうと費文偉が覗き込んでいた眼は、読取られることを嫌うかのように、すっと横に流れて逸らされた。そして、あまり表情を露にしない姜伯約は、くっくと笑い始めると、その虫が止まらなくなったらしい。

「そういう真剣な目付きは奥方になさったら宜しいでしょうに、宝の持ち腐れですよ。」

 そう言って突っ伏して笑い転げるのだから、費文偉は居心地が悪い。不機嫌そうに、持って来た酒瓶の中身を総て姜伯約にぶちまけた。
 まさか、酒精で全身浸されるとは予想もしていなかった姜伯約は、一寸唖然とし、「なんて勿体無い!」と絶叫した。



 大樹の下、二人の高官が低俗な口論を繰返している内に、雨は、ひと時その涙を止めていた。











 大の男二人が雨の中喧嘩ですよただのバカ二人になってしまいました…。
 一応、イメージとして、姜伯約は誰にも飼いならせない猛獣、費文偉は蜀一番の猛獣使いということで。 今、お互い必死に勢力争いをしている模様です。勝者はどっちだ。(06.09.14)