私は、もう随分長い間、都の香りを忘れていた。
それまで十数年の間、草いきれと、馬や羊といった獣の絶えざる臭いとが、すべてだった。
「御不自由はございませんか。」
御簾の外から武骨な武人の声がした。この車蓋の中に焚き染められた香に咽ながら、少し疲れた声を作る。
「少し…少し休憩を頂いて宜しいですか。車に乗るのも久しぶりなので、疲れたみたい…。」
「これは気が付きませんで。畏まりました。」
久しく車に乗っていなかったのは事実。かの民族の生活習慣に合わせるように、私は騎乗していたのだから。
この迎えの一団が来た時、咄嗟に自分が乗るべき馬が見当たらず、困惑したことも、もう懐かしい…そう、もう想い出にしなければならない。
では、声を掛けられる度に、休息を求めては、集団の足を止めているのは、一体何の未練なのだろう。
朔風吹き荒ぶ彼方の空の下に置き去りにしてしまった子供たちだろうか。あの、泣き叫ぶ幼い子を残してまで向かう都に何が残されているのか……――何もない、私にはもう父も母もいない。
そして、母という後ろ盾を失った子らがどうなるのか、左賢王に託したとはいえ、なんとも心許無い。
それでも、都は私を購うという。
…………そのことについては、もう自分の中で済んだこと。終わったこと…でも…。
止そう。考え出すとまた残像の様に、子供の涙が土に染み込み、私の名を呼ぶ声が耳の奥で反響する。
必死にそれを断ち切るように、記憶の中から一人の男の顔を引き寄せた。
略奪者、王者となれなかった左賢王、蛮夷の者、馬と共に活き朽ちる者…。
彼と共に在る間、様々なものを封印してきたつもりだったけれど、解いて見れば箱の中は空だったかのようなこの空虚さは何だろう。
夫への愛情だろうか?そのようなものが有ったのだろうか?
十数年の記憶を脳裏にまさぐったが、分からない、としか。
これが愛憎という表裏の感情だろうか。
目を閉じると、日に焼けた肌が浮かぶ。
もう、顔も忘れよう。大地に在った日々を忘れよう。高く澄み渡った紺碧の空も、夜を照らした月光と星辰も、新緑に満ちた草原も。
私は帰るのだから、あの焼け落ちた都へ。
あのハコの中へ。
了
曹孟徳によって、都へ帰ることになった蔡文姫です。なんで子供を連れて帰っちゃいけなかったんでしょうね…。(06.11.23)