けものかい。




「まずは、獅子奮迅の働きと言っておこうか。」


 美貌を謳われる周家の旦那が、弓の弦を張り直していた甘興覇の傍らに立って、手元を覗き込んだ。

「これが、公績の父上を射抜いた弓かい。」
「誰をどの弓で射殺した、なんて覚えていたって、次の獲物を狩る時、役に立ちませんよ。」

 甘興覇は、その鮮やかな手捌きを止める事なく、素っ気無く答えた。
 孫氏念願の黄祖の首。その戦いで皮肉なことに甘興覇は参謀格として功を成した。数年前、凌公績の父を戦死させ、敗走する黄祖を後衛で救ったのも甘興覇だった。

「あの坊っちゃんは何とかなりませんか。小煩くて敵わん。」

 美周郎はそれが凌公績のことを指すのは重々承知している。

「父の仇に報いる、まさに孝子の鑑だ。止めさせる理由はないな。」
「御大層なことで。」

 そういう甘興覇の額は、まだ血の滲んだ包帯が無造作に巻かれている。恩人の助命を請い、主君の前で額を割ったためだった。



 義侠の漢が、孝子の仇討を嘲るか、それとも芝居をして見せているだけか。
 孫氏と黄祖の因縁は深く、戦で命を失った者はこの江南に数多いる。
 その怨念と憤怒を解くのは時を経ても不可能だ、しかし。
 凌公績が甘興覇に仕掛ける茶番劇は(凌公績は思っても見ないだろうが)、丁度よく溜飲を下げさせるものになっているようだ。甘興覇は分かっているから、凌公績に何も語らないのだろう。憎悪の視線を集中させ、仇討ちという現実には出来ないことを演じている、ささやかな兵とその家族達の代償行為だった。
 甘興覇は、嘲笑を浴びる道化のような己の役回りについて、不満を漏らしたことはない。

 憎悪を一身に浴びると言う経験のない美周郎がとやかく言えるものではないし、あまりにも真っ直ぐな凌公績を諭すのも不可能だ。
 主君が如何なる采配を見せるか。内政に才ありと実兄が言い遺したが、これから証明されることだろう。



 やや涼しい河風が頬を撫で、ほつれ毛を掻き乱してゆく。未だ軍装を解いていないにも拘らず美周郎は軽く身を震わせた。甘興覇は寒さを感じないのか、諸肌脱ぎで、黙々と己の武具の手入れを続けている。赤銅に焼けた、無駄な肉を総て削ぎ落とした荒々しい躯には、幾つもの細かい傷痕があったが、それらも沈黙を守っているようだった。
 まだ、身に沁み込む戦塵が足りぬと乾いているようだった。

 美周郎は綺麗な切れ長の目を細めて、その乱れのない作業を見つめながら、他の人間を重ね合わせた。



 厭く事なき破壊欲。すべてが獣性の本能のようだった漢。
 一時の忘却をも許さぬような、危険な男。

 時には美周郎とて戦慄したものだった。彼の前には、人間とは二種類しか居ないのではないかと。今殺す人間と、いつか殺す人間と。
 しかし、その獣性に満ちた抜き身の刃のような眼球は、何故か美周郎を魅惑して止まぬものだった。血の色しか映さない筈のその目には、確かに自身の人間としての欲が、より美しく映し出されていたのだ。所詮人間はどのような聖人であれ、誰かを少なからず殺したいということか。
 自らを縛る枷を持たなかった彼に、良家の一子であった美周郎が魅了されない方が有り得なかったのだろう。



 ふふ、と美周郎は自嘲した。同じように獣の衣を被った人間が目の前にいる。だがそれは彼ではないし、面影を重ねられることを甘興覇は迷惑だと考えるだろうし、彼は心外だと言うだろう。

 追憶に心を委ねるには、美周郎は若かった。彼にとって、道は先にながく、ながく延びているものだったのだ。



 まだ、若かったのだ。

 黙々と武具の手入れを続ける男にとっても、やっと得た天地で暴風となることを願ってはいても、司令官の昔話に付き合う気は毛頭ない。ただ、自分がいつでも司令官の使える獣であることを証し、爪を砥ぎ続けるのみだった。
 もう、鎖と首輪は真っ平だった。手足を食い千切られても、獣を従わせる猛獣使いをやっとこの地で見つけたのだ。せいぜい、楽しませてもらおう。



 それぞれの思惑を余所に、長江の流れはただ穏やかだった。












 えーと…。甘興覇と孫伯符ってちょっと似てるようだけど、実は似てないのかなあとか考えていたら収拾が付かなくなりました…。後半だけ読むと、すっごくアブナイ世界の住人やん。凌公績は真面目すぎて周りがちょっと見えなくなっているくらいがよろしいかと。(06.10.30)