普段の香とは異なる甘い空気が鼻先をかすめた。
確かこれは花の。
「紅梅かね、それとも白梅か。」
不快な男が見事な枝振りの白梅を手折って肩に乗せていた。司空府の遅咲きの梅が、今年は当たり年だったはずだ。春風が枝を揺らし白い花弁が舞い散る。
「判ってないな、華は八分で摘み採らねば、開き切れば醜く枯れ果てるしかないだろ。」
分かった風な口を聞く軍祭酒だが、風雅を解しているとはとんと聞かぬ。陳長文は肚の中で毒づいた。もっとも露骨なそれを気付かぬ軍祭酒でもないのだが。
「なんだ、あんたも知らぬのか。」
彼の人が気紛れに、四季折々の淡い華の香気を身に纏うが、一体どのような香を焚きしめているのか。巷間の自称粋人らを悩ませていた。
事実が至極簡明であると知ったのは、長女が嫁いだ彼の人の忘れ形見の官舎へ出向いた時だった。
それまで香に勘付くことが出来ないほど、朝歌に於ける彼我の距離は遠かった。自らの手で引き上げることは容易いが、婚姻による繋がりが陳長文を躊躇わせていた。
内心忸怩たるものはあるが、唯才によって階梯を登り詰めるのを見守るしかなかった。
否、それだけであろうか?
嫡流との微細な温度差云々を傍らから嘴を挟むつもりはない。しかし、嫡流から距離があるゆえに亡き面影を恋しがるものか、彼には内に隠らせた暗さがある。それが官界で遊泳するには危険かもしれぬ以上、日陰に住まわせるべきなのだ。
「何を思い煩っていらっしゃいますの、お父さま?」
丹桂の薫りを纏った娘が小さな笑みを溢しながら近付いてきた。淡い紅の珊瑚で梅を象った笄が、金属的な響きを立てる。平素、身を飾ることのない彼女が唯一着けている装身具は、婚約時に贈られたものだった。
背後には彼女の背より一回り高く、橙に薄い絹を纏わせたような色合いの丹桂が満開に咲き、冷たく澄んだ空によく映えている。その枝に二枚の薄絹が懸けられ、紺碧の空を背景に、ふんだんに丹桂の香気をはらんだ微風と戯れるようにその身を舞わせていた。
二枚の薄絹は絡み合うように揺れている。
霞のような花の移り香とは。
成程、月に根を張る仙木には焚き染める為の香よりも生の薫りが相応しい。
故人の風雅をどこで知ったのか詮索するまでもない、荀景倩は母を引き取っているのだから。
しかし、娘の口から漏れたのは意外な言葉だった。
「唐夫人が何を想ってお義父さまの衣に花の薫りを移そうとしたのか、今なら解りますわ。」
「お義母さまからお伺いした時、おままごとのようだと微笑ましかったですけれど。」
必死だったのですよ。
「何のことか判じかねると、お父さまもあの人と同じ表情をされますのね。」
唇に指先を当て声を殺して笑う自分の娘が、陳長文は見知らぬ妖のように感じられた。この娘はこのような笑い方をしていただろうか。
妻も同じような、諦念と云うには勁い意志を隠したような奇妙な顔をちらつかせることがある。
人はそれを妖艶、と言うのか。
蠱惑とは、この気配だろうか。
「ええ、この手段しか思い付かなかった唐夫人と私の浅薄をお嗤いになります?」
再び、謎掛けのように丹桂を振り返りながら問うてきた。
明るい日差しの下にあった筈が、黒く澱んだ叢雲がひとつ湧き上がっていた。その昏さの最中にあって、娘は更に白く浮き上がる。
「身も心も奪い返す方法はこれしかなかったわ。」
針のような水滴が落ちてきた。
「私達の巣を、常に忘れぬよう、庭に咲き乱れる花の薫りを移し捕るのですよ。貴方の還る所は此処だと、私の元にしかないのだと。」
しかし、それは痛みを覚えるほどの豪雨へと変ずることなく、霧のように細かい粒子へと変化する。
湿り気を帯びた空気が、更に花の香気を強いものへと変えていく。甘雨の恵みに感謝するかのように、丹桂は艶かしさを増していく。
同じ雨によって、数刻後には無残に散らされることを悟っているかのように。強すぎる香気を。
「あの人は私の夫ですもの。お義父さまにも、天子さまにも渡さないわ。」
霧雨の中、娘は屋根の元へ退くこともせず。
張り付く髪と衣服を払いもせず。
「誰にも渡さないわ。隣に立つのは最期の最後まで私なの。」
この世のものではない、月の住人のような薫りに身を包み。
青褪めた口元から悲鳴にならなかった言葉が紡がれ続ける。
「誰にも渡さないわ。誰にも。」
紗の睫毛を帳とした、葡萄のような瑞々しい瞳から、燐光が閃き一筋流れ落ちる。
小雨の中、鴛鶯の如く、
二枚の衣は、睦まじく寄り添い、
絡み合い、空を、
ひらひらと。
包む肉体の修羅を知ることもなく。幻想を紡ぎ続けていた。
了
丹桂とは金木犀の漢名だそうです。
みなとにとって荀氏と陳氏は魏晋の狂言回しです。だから何って感じですね。彼の人=荀文若、忘れ形見=荀景倩です。
服をかけておくだけで花の香が移るかどうかは実験したことないので……想像です。(07.11.08)