しいひと。




 ………誰かが、ゆっくりとした穏やかな動きで、己の髪を梳いている。
 水中のように曖昧な世界から浮上し始めた意識の中で、その武骨な掌の温みを心地好く感じていた。



 二度、三度、と浅く呼吸を繰り返し、冷えた空気を肺へ送る。漸く霞みが晴れるように、意識を自分のものに取り戻した。



 始めに目に飛込んできた見慣れた天井から、政庁内にある自室で横たわっていることが分かった。
 朦朧としながらも、己の抱えている案件の算段を、習慣のように数え出す。そして、官僚として気が急いたのもあるだろう、起き上がろうとすると、横から壊れ物を扱うかのように、伸びてきた手が肩を押さえた。

「舅殿、未だ休んでいた方が良い。」

 荀景倩は仄かに微笑むと、肩に掛けられた掌を外そうと、自分の痩せた白い手を重ねたが、有無を言わせぬ強い力で、再び寝台に臥せることになった。自分の冷えた手に比べて、この男の肉厚のある手はいつも暖かい。

「訊いても良いか。私は…」
「書庫だ。他の者から舅殿が戻らぬと聞いて…捜した。」

 散乱した書簡の中で倒れていた、という。夕暮れの影に入れば、気付かれるのは更に遅れただろうとも。

「そうか…迷惑を掛けたな、済まなかった。」
「心配したのだぞ。」
「…ん。」
「何時からだ?」
「うん?」

 陳玄伯は黙って荀景倩の胸部のあたりを指し示した。
 荀景倩は薄い唇を僅かに動かし、もう長い付き合いになるし、天命を害うこともないから、放っておいている、と答えた。
 自身の躯に巣食った病魔を語るには、諦念が過ぎていた。鍼も投薬もしていないという。

「良い迷惑だな。」
「そうだな。でも治らないものに手を懸けても仕方ないだろう。」

 宿痾と闘うには、自分には気力も意思も欠如していた。老いのためではない。壮年の頃からの諦めだった。自暴自棄ではないと思う。明らかに自分は長く生きているのだから。

「お前も多忙なのだろう。死に損いの相手をしていないで、早く戻ったらどうだい。」
「薬湯を任された、飲んでもらうぞ。」

 陳玄伯は謹厳な顔に悪戯っぽい笑みを浮かべた。その手には、平均よりも大振りな椀があり、薬草を煎じた独特の臭気を放っている。湯気は見えないので、ほぼ冷めている――つまり、飲むには丁度良い加減だということだろう。

「医の者が、兎に角、発熱を下げる必要があるというのでな。飲みたがらないと云いながらも、渋々作ってくれた。感謝せねば……」
「いっ……いらな………。」
「舅殿が薬嫌いなのは、幼児の頃から知っている。だけど、飲まないと体力が益々落ちるばかりだ。頼むから飲んでくれ。」

 よほど薬湯に厭な思い出でもあるのか、荀景倩は上半身を僅かに持ち上げると、牀の範囲内で後退りを始めた。表情は既に薬を飲んだ後のように苦々しい。

「往生際が悪いぞ。」
「飲めぬものは飲めぬ。躯も欲していない。体内の気をただ乱すだけだ。」
「現状が既に乱れているとは思わないのか。舅殿の病も何時噴出すかも判らないではないか。一人の身体ではないのだぞ。」
「鴻毛よりも軽い身だが?」


「景ちゃん!」



 拳が握られたが、それを振り下ろすには、陳玄伯は優しすぎた。
 ほんとうに。

 やさしすぎる。



 荀景倩は、自分の中の凍土を知るが故に、その氷の世界にまで吹き込む陳玄伯の裏表のない温かさが、時として刃のように感じられた。
 この純粋な人間を、最も深く傷つけるのは、自分かもしれないことが、例えようもない恐怖となって襲ってくることがある。

「……ごめん。私は我侭だから。――薬湯は必ず飲むから、そこに置いていてくれたらいいよ。職務に早く戻るといい。」

 荀景倩は再び横になり、目を閉じたが、人の去る気配がない。暫く放って置いたら、掛布から出ていた手に、手が重ねて置かれるのを感じた。温かく、そして少し湿り気を帯びている。激昂の名残だろう。政府高官というよりも、武人の手だな、とぼんやりと思った。
 何故陳玄伯がこのようなことをするのか、そこまで思いが至らないまま、荀景倩は熱の為の眠りに落ちていった。







『いやです、兄上、いっしょに寝たい。』
『もう、ひとりっぽっちはいやです。』



 陳玄伯はその声にびっくりして、忍び足で声の聞こえる寝室近くまで行くと、耳をそばだてた。
 その部屋は、つい最近、父が引き取って学問を看ている荀家の子供がいるはずだった。大人しい子供で手の掛かるようなことは何もしない。我侭もひとつも言わない。陳玄伯のような腕白さとは正反対の性格だった。

 さっきまでは、自分がその部屋にいた。その子が風邪を引いたので、看病するように母に頼まれたのだ。
 だけど、じっとしていられない年頃の陳玄伯は、それを見抜かれて、『ぼくなら大丈夫だよ。』と言われたのを良いことに、外へ飛び出していたのだ。



『景倩、我侭を言うんじゃない。長文先生もお前のことを誉めていたぞ、歳に似合わずしっかりしていると。』
『しっかりしなくてもいい、良い子じゃなかったら、兄上のところにいける?母上や奉ちゃんとまた一緒に暮らせる??』
『一体どうしたんだ。辛いことでもあったのか?』
『さびしいです。兄上、さびしい、すごく、寂しいんです。』



 結局、風邪を引いている間だけ、ということで荀景倩は荀長倩の家に帰った。

『さーびーしーいー。』



 まだまだ幼かった自分には、寂しい、ということが良く分からなかった。
 ばらばらに解体された荀家の事情を知ることもなかった。



『さーびーしーいー。』

 それでも泣いているあの子の顔はもう見たくないと思ったから。







「せめて、こうやって眠るときくらい、傍にいてやるよ。」












 えーと、これ、ココにおいて大丈夫でしょうか…。ただの幼馴染ですよもちろん、ええ……たぶん。
 陳玄伯はオットコマエな性格だといいですね。荀家の双子がえらく迷宮思考の持主になってしまったので、こう、彼は竹を割ったような感じで。……………それってどんな感じでしょう。(そこからですか。)(06.11.17)