かげろうの




 ひらり。
 ひらり。

 平均的な武人から見れば、僅かに小柄な躯がひとつ、広間の真ん中で舞っていた。
 身に付けた鎧に華美な意匠はそれ程施されてはいなかったが、 動きに合わせて揺らめく衣の鮮烈な紅さが大輪の華のように目を焼くようだった。

 ひらり。
 ひらり。

 衣は常に風をはらむように優美に揺らめいているが、それだけ、留まることのない激しい動きを続けている証左である。
 それでも、剣捌きは更に鋭さを増し、武人に息の乱れは無い。

 ふわり。

 参席している文官は息を止め、武官は手にした杯を置くことを忘れたように『舞台』を注視する。
 流れている音曲は、筝ひとつのみ。多くの奏者が坐していたにも拘らず、楽を紡ぎだしている手は一組だけだった。
 舞は、途切れることはなく、広間に乾いた靴音を響かせている。










 「剣舞、でございますか。」
 「軍中で評判ということであるが。」

 それは新春の宴の席のことであった。
 姜伯約が祝いの言葉を述べ、辞そうとした時、ふと思い出したように帝が剣舞を所望したのだ。 帝は全く邪気の無い、穏やかな表情だったが、さすがに近臣は顔を顰めざるを得ない。

 何も、新年早々、殺伐とした空気を持ち込むこともあるまい、と。

 如何に、蜀が成立時から軍事国家として歪みを抱えており、それを君臣共に否定していないとはいえ、その憂さを忘れたい時もある。
 軍内でも最強硬派である姜伯約に付き纏う血の臭いを、改めて確認するようなことは避けたいものだ、 と穏健な人間は誰しも考えている。だからこそ、毎年、帝への拝謁が済めば盃が乾くのも待たず、席を立つこの将軍を引き止める者は、 極少数を除けばほとんどいない。彼自身、華美な場を不得手としているのか、普段にも増して無口となるし、 儀礼的なものさえ終わらせれば、早く退出したいという態度が、あからさまではないが、確かにある。

 「朕は、武芸に明るくはないが、姜将軍の剣舞ならば、是非見てみたい。」

 柔らかな声音が落ちてくる。
 一方の姜伯約は、いつも通りの無表情が崩れることはなかったが、心中、困惑が広がっていた。

 ……はて、剣舞とは如何に。

 彼は己の武骨と無粋さは重々自覚している。そのような優雅なものを陣中で披露したことがあっただろうか、と記憶を手繰り寄せた。

 「将軍が、野営の折、深更に踊っているという、あの噂ですかな。」

 さり気なく、費文偉が助け舟を出した。無論、彼は姜伯約が『踊っている』つもりが全くないのを知っている。 眠れぬ時、軽く身体を解すのに、剣術の型を一通り流しているに過ぎないことは、本人の口から聞いていた。 幼い頃、剣術の師から叩き込まれたもので、 子供が覚えやすいようにと、辺境の拙い曲に乗せて基本の型から実戦まで全てを網羅したものとか何とか…。
 ただ、話を聞いている費文偉の目から見ても、それは舞にしか見えない。
 姜伯約にとっては、辛い修練の時代に散々やらされた苦い思い出しか残っていない代物ではあるが、 素振りをしようと剣を手に取れば、自然、その動きが出てしまう。兎に角、彼の中で、それは『剣舞』ではない。

 「…御意。」

 だが、本人が幾ら嫌がったところで、主の意向に逆らえるはずもない。早々に姜伯約は白旗を揚げた。





 新年の慶賀を祝いに、広間には蜀の文武百官が集い、笑いさざめき酒盃を交し合っていた。宮廷で抱えられている楽隊が、途切れることなく 曲を奏で、女官達が行き来する。
 そこに奇妙な沈黙が落ちた。珍奇なものを見た、というように。

 仮令、帝から所望されたとはいえ、御前において寸鉄を帯びることが許されるはずもなく。 費文偉から手渡された木剣の重さと長さを確かめながら、姜伯約は広間の中央に進み出た。 周囲の人間がどう観ているかなど構うことがないのは何時もどおりだった。

 席に着いた帝に一礼すると、右手で構えた木剣を上段から真っ直ぐに足元へ一閃する。
 その動きで、彼の瞳から、全ての光景が抜け落ちた。人としての目の輝きを失い、逆に獲物を視界に捕らえた『なにもの』かとして 光のみを映し出す。獣というには無機質で、姜伯約から生々しさと獰猛さが感じられなかった。

 ひらり。

 『漢』の後継であることを誇るかのような、紅い衣が姜伯約の動きに合わせて揺らめき始める。
 楽の音も止まり、静寂が孤独な武人を包み込んだ。

 規則的な息遣いと、鋭い靴音だけが木霊する。

 その静謐を引き裂くように、悲愴な筝の音が高く響き渡った。
 老いた楽人がひとりだけ、己の楽器を手にしていた。絃を震わせ、この蜀という南国では聞くことのない、寂しげな旋律を紡ぎ出す。
 益州の蒸せるほどの甘さでもなく、中原の華やかな文化の香りでもなく、乾ききった厳しい朔風の音。 中華の恩恵に浴していない稚拙な音律は、まさに姜伯約の故郷を思い出させた。

 姜伯約は奏者をちらと見遣ったが、眉一つ動かすこともなく、再び『舞』に己の意識を埋没させた。

 帝の傍に侍っていた費文偉と夏候仲権は、この静謐さの中に、酷く張り詰めた空気を感じ取り顔を見合わせた。 余興というには、姜伯約も楽人も余人の追随を許さぬ技を披露しているが、それにしてもこの不穏な気配は何なのか。 武官の中でも、二人、三人と妙な空気に勘付いて微かな動きを見せる者が出始めた。

 ―かつり。

 しかし、その周囲の反応を何ら気に留めもせず、姜伯約は最後の抜き打ちから静かに木剣を引くと、それを手の内に納めていった。 筝も、咽び泣くような音を響かせ、楽人の老いた手が宙に止まる。

 何事もなく、終わった―その時。





 一陣の風。
 楽人の手から、空を切り裂くように、玉座に向かって鈍い光が幾筋も放たれる。 そして、ほぼ同時に姜伯約は横に跳び、木剣の一振りでその光を叩き落す。身体を返す反動でかの老奏者の前へ踏み込むと、 躊躇することなく木剣を振り下ろした。 楽人の掌が返され、今度は匕首が目前に踏み込んできた将軍の無防備な心へ向かって放たれる。

 ひとたび瞬く間の惨事だった。

 脳天から血を噴出し、声もなく崩れ落ちる老奏者を瞳に映しながら、姜伯約は己の左腕をもって匕首を受け止めた。 その武人の姿を冥土の土産と眼に焼き付けるように見開き、唇の端を引き上げ、ひとつ大きく息を吐くと暗殺者は事切れた。

 どす黒い血が、紅の袖を濡らしていく。
 左の肘下が感覚を失っていることに遅れて気が付いたように、先程までと異なった緩慢な動作で突き刺さっている匕首を 引き抜くと、無造作に投げ捨てる。 そして再び木剣を振り上げ、先程まで自身の『舞』に合わせて音曲を奏でていた 筝を一撃で叩き壊した。木剣も共に粉々に砕け散った。
 割れた筝の中から、一振りの小振りな剣が現れた。

 時の流れはその間、全く動きを止めているかのようだった。
 衣擦れの音すら、響き渡るような沈黙。



 新たに足を踏み入れた女官の上擦った声で、広間は金縛りから解けたような騒擾の坩堝と化した。
 目を見開いたままの帝は、側近たちによって慌しく奥へと運ばれていった。
 表に控えていた兵が次々と飛び込み、悲鳴を上げる楽人たちを捕縛していく。
 高官たちもそれぞれ、兵に付き添われ、広間から退出していった。





 「将軍。」

 声をかけられ、姜伯約は僅かに目を動かした。
 左肘を引き裂いた衣の袖できつく縛り、匕首に塗り込められた毒の混じった血を出していた。 毒素が抜けると、どす黒かった色も鮮やかなものに変わった。 新たに傷口を覆うために、衣を裂こうと袖を銜えた鮮血の似合う将軍に、 どこから手に入れてきたのか、張伯恭が真白い包帯を差し出した。
 それを一瞥し、興味をなくしたように、再び物言わぬ楽人に目を落とした姜伯約の腕を、張伯恭は予想していたと言わんばかりに 掴むと了解を得ることなく包帯を巻き始めた。 血止めも兼ねるように固く巻いていると、好きにさせていながら無言で、痛い、と無傷の右手で治療者の腕を叩いて訴えたが、 それを無視する。
 心の内では、あいも変わらず勝手な男だ、と毒づいてはいた。痛むなら素直に口で言えばいいものを。

 「後で、医の手当てをきちんと受けることです。」

 聞き入れるかどうか疑問だが、言わずにおれぬのが張伯恭という男である。 忠告、献言と悉く容れてはもらえなくとも、姜伯約に対しその口を慎むことはない。

 「顔見知りですか。」

 どこか上の空で、血の海に沈んだ老奏者を見つめている姜伯約に問うた。
 濁りのない、かといって澄んでいるとは言い難いその瞳が映しているのは、どこか満足気なその老奏者なのか。 それともその背中の彼方に拡がる無窮の空なのか。その空の色はここ成都とは全く違うものなのだろうか。
 常に引き結ばれた口とは異なり、饒舌な強い光を放つ目はどこか焦点を失っていた。

 遠い―とおい眼差し。





 「知らぬ。」

 その目の彩に釣り込まれていた張伯恭を引き戻すように、低い声が耳朶を打つ。
 いつの間にか、視線は張伯恭の顔に据えられていた。ただ、光は弱い。

 「この男、陛下のお命ではなく、将軍を害さんとしたように見受けられたが。」
 「何れ、調べが進めば判ることだ。」

 判るまい、と張伯恭は思った。恐らくは老奏者ひとりの胸の内だ。 他の楽人を尋問したところで得るものは皆無だろう。 誰かの命を受けたのか、それともこの老奏者単独の行為だったのか、最早知る術もない。

 姜伯約も、関心はあるまい。
 この男には戦いしか残されていないのかもしれない。
 凱歌か、屍を晒すか。
 その二者択一しか興味がないこの将軍にとって、過程や理由を問うことは無意味なのだろう。

 老奏者の骸が兵士の手によって運ばれていった。市場で晒されることとなるだろう。 だが、名もなく三族もこの蜀にはいないかもしれない。

 それを見送ると、姜伯約は投げ捨てた匕首を拾い、玩びながら立ち去ろうとした。 流石にそれを見咎め、張伯恭は肩を掴もうとしたが、それをするりとかわした。

 「壮士、ひとたび去って、復た還らず、か。」

 振り返り、仄かに微笑み冗談とも思えない言葉を呟くと衣を翻した。刀身には、彩を無くした瞳が映っていた。


















 どこかの本で「司馬昭が姜維の暗殺を謀った」云々という文章を見て思いつきました。妄想ばんざい。
 もちろん、そんな剣舞はありません。(06.07.13)