かげろうめ。




「拙いな。」

 その声に無心に身の丈に合わない剣を振っていた幼児が振り返った。
 青い空は何処までも遠く、若葉が芽吹きつつあった草原は柔らかく幼児の小さな身体を受け止めていた。

「どこの師に付いているのか知らぬが、そんな剣技は戯れだな。」
「師匠なんていない。城内の調錬を見て、それで…。」

 次第に声が小さくなる幼児を見て、この如何にも流れ者といった風体の壮年の男は爆笑した。

「自己流か。見るも修養の一環だが、それは基礎が出来てからと言うものだ…見てろ。」

 己の懐から出した小さな匕首を右手首を返して二、三度回転させると、正眼に構えた。


 ふたつ、みっつ細く呼気が男の唇から漏れる。その躯は、徐々に腰を低め沈んでゆくようだった。 その目は獲物に目を付けているとも、遠景を見ているとも区別の付かないものだった。
 獲物を見付けた獣が息を潜め、流れていた風も留まったと思えた瞬間、閃光のように匕首は振り下ろされた。
 そこから次々と一寸の無駄もなく匕首が流れていった。


 瞬きもせず、幼児はその動きに魅入られ、我に返った時には、匕首は元のように鞘に収まっていた。

「おっ…教えて、それ!」

 幼児は勢い込んで、身元も定かではない男に頼み込んだ。

「阿呆、俺の本業は楽師だ。流れ者だぞ。剣の師匠ならそこらにごろごろいるだろ。」

 男は傍らに置いていた筝を引き寄せた。
 後漢の威光も陰りを見せ始めた時代である。 中央に絶えざる政争があるならば、当然、この辺境の地も、境を犯す異民族が蠢動し、安穏とした時代は過去のものとなっている。 そのような場であればこそ、鈍っていた腕を振るう機会とばかりに、武芸者や侠者が流入し、ここ天水でも不穏さを醸し出していた。

「あの人達じゃ駄目なんだ、あんなのは剣じゃない。」
「こいつ、生意気に道を語るか。面白い、どの辺りが駄目で、俺のが善いのか聞かせろ。」


 ぐっと幼児は詰まったが、必死に縋ろうとした。



「…て、てんめいだ。」



「はあ?」
「あの人達の剣は、ただ今だけのものだ。功名や自分の力を誇るだけで何も生み出さない。 だけど、貴方の剣には天命がある。天命を果たす為に得られた剣技なんだ、だから。」

 いつの間にか男が逃げないように、服の裾まで掴みながら、幼児は顔を真っ赤にして捲し立てた。

「あー、わかった、わかったよ…俺は煽てに弱いんだ。」
「じゃあ、教えてくれるの?」

 期待に満ちた眼差しに、壮年の男は頷くしかなかった。





 男は、長く天水の地に逗留することはなかったが、 年に二、三度、多ければ季節の変わり目には、この地の果てにやって来て、一旬程留まった。
 男が教えたのは唯一つ、幼児を魅惑した剣舞だけだった。

「剣の動きはそれが総てだ。ひたすらその動きを叩き込め。呼吸など、槍術の師に教えてもらえ。」

 男は幼児――いや少年に付いた槍の師がそれなりのものと踏んだのか、投げやりにそう言った。





 そして、また月日が過ぎた。

「なんだ、成人したのか?」
 これまでは総角だった髪は一つにまとめられ、巾で覆われていた。

「はい、師父。」
「字も与えられたんだろ…そういや、長い付き合いになるが、姓名も聞いてなかったな。」

 それまでは、「小僧」で済まされていたのだ。

「姜維、字は伯約。…師父は?」
「いいか、伯約。用心深い人間は易々と己の名を教えぬものだ、分かったな?」
「…はい、師父。」



 姜、姜氏ね…。色黒く焼け、白髪が目立ち始めた男は、その姓の人間が、羌族の叛乱で将を庇い落命したことを耳に入れていた。
 辺境の事変に取り零しはないというのが男の自尊心だった。

 姜伯約には、相変わらず、始めに教えた剣舞だけを行わせた。
 ただ、以前とは異なり、男は姜伯約の少年らしいしなやかな動きに合わせて筝を奏で始めた。

「惑うな。俺が好きでやっているだけだ。そんなものに気を散らすな。」





 姜伯約はもう、青年と呼んでもおかしくない程、逞しさが加わりつつあった。

「中郎か。」
「亡父の功によるものですが、これで郡の軍事に関わることができます。」
「そ、か。…そういえば、ずっと聞きたかったんだが。」



「お前は、天命を知っているのか?」



「まさか。」

 姜伯約は相好を崩した。声は低くなり、危険な匂いのする面立ちも張り詰めたものがあるが、笑うと、まだ幼さが仄見える。

「五十にして、天命を知る、でしょう。寧ろ、師父こそ、もうご存じなのではないですか。」
「俺は聖人の域には程遠い。未だ不惑の境地にも達してはおらぬよ。伯約のようなお利口さんなら、判るかもな。」



「私は天命など信じてはいませんよ。」



「何?」
「師父、童とて願望を叶える為ならば、小さな嘘も吐きましょう。」

 悪戯っぽく姜伯約は微笑んだ。
 男は天を振り仰いだ。何処までも高く触れることも叶わぬ宙。二人が出会った季節が秋だったのか春だったのか、 そんなことは忘れてしまった。はっきりしていることは、男があの頃より、顔の皺を数多く深く刻み、老境に踏み込もうとしていること。 彼の唯一人の弟子の器が、この天水では小さすぎることだった。

 器が砕けるのが先か。器の小ささに圧殺されるのが先か。それとも。

 男は筝に手を掛けたが、すぐにそれを降ろした。

「天を畏れぬ大罪人に、おのが武技を仕込んでいたとはな。」
「悔やまれますか?」
「いや、それが俺の天命だろうよ。」
「師父の天命は筝の『中身』だけではないでしょう。」

「……伯約、俺は少し相を見ることができる。お前は遅れてきた人間だ。 時代から遅れた人間の末路は惨めだ。だから、愚鈍になれ。聡明であるな。疾駆しようと思うな。ただ、ゆっくりと歩け。」
「それは忠告でしょうか。」
「警告だ。」
「その時は師父が来て下さるのでしょう、その筝という名の鉄槌と共に。ならば、私はその鉄槌すら砕いて見せましょう。」



 季節はずれの蜻蛉が弱々しく飛んでいたのを、姜伯約は、目にも留まらぬ剣技で両断した。
 ――己はこうはならない、というように。

 その目は何も映すことのない、碧い、かげろうの目、だった。












 『かげろうのめ』シリーズでここまで引っ張ることになるとは思いませんでした。
 一応、三部作の最後ということで。武人というどうしようもない生き物が一応の主題だったのですがちょっと消化不良かもしれません。 時間が前後して解り難くなって申し訳ありません。
 武にしろ、楽にしろ、道を究めるということは並大抵のことではないのだろうなと。 そして道を究めれば、何れは師が立ちはだかることにもなるだろうし、決してそれは幸福ではないよなあとかつらつらと。
 姜伯約は意外に話の捏造ができやすくて楽しい…(こら)。(06.08.24)