午後の 五時
 きっかり 午後の五時だった
 少年が 白い敷布を運んできた
午後の 五時
 石灰の籠の 用意も終わっていた
午後の 五時
 あとは死を 死を待つだけだった
午後の 五時

 ―――ガルシア・ロルカ







 仔犬を飼っていた。

 幼い頃の話だ、父もいた。
 長文先生に引き取られるまで、いつもずっと傍らにいた。

 仔犬を飼っていた。

 兄といつも戯れていた。
 あの、忘れもしない、自分と、兄との純白の世界。





おもいでのわり。




「奉倩、お前が洛陽に出てくるとは思わなかったよ。」
「なんで?不思議じゃないだろう、論じるにも人材は此処に集まってきているんだ。俺も刺激が欲しいと思うのは至極当然だと思うけど?」

 旅装を解く間も無く、荀奉倩は、先に京洛に出ていた双子の兄、荀景倩の元に顔を出しに来た。
 荀景倩は素直にその来訪を喜び、未だ飲することは珍しい茶を出した。風流を好むのは血筋なのか、それとも面影を追う為の芝居なのか、敢えて問うことはしなかった。

「それに、姪が出来たと聞いたし。………結構苦いんだな、これ。」
「飲んだことが無い、とは思えないね。私の煎じ方が今ひとつ要領が良くないから。娘はやっと寝返りが打てるようになったくらいかな。」
「夜泣きとか。」
「しないね。私たちよりも随分扱いやすいようだ。女の子はそういうものなのかな?」

 世情は騒がしくなっていた。帝が崩御し、新たな貨幣が乱造され、彼方の蜀の地から兵乱の兆しが着実に芽生えていた。いや、既に事は起こりつつあった。一度表を歩けば、軍馬は嘶き、鍛冶の鎚の音は昼夜分かたず響いている。

 そんな外の世界と隔絶したような邸内は、耳杯を卓に置く音も木霊するかのようだった。

 扉は開け放たれ、初夏の風が僅かな湿り気を帯びて舞い込んでくる。

「夕立に、なるかな?」
「荒事は、好きではないのだけれど。何事もね。」
「驟雨くらい、大目に見たらどうだい。昔はそれほど愁眉が深くは無かったと思うがね。」

 外界など、知らなければ良かったのだ。ずっと兄弟だけの狭い世界があれば、それで満足していたのに。
 ―――不遇、と云うことを知る事もなかっただろうに。

 荀景倩は何も迷うことなく、官界へ足を踏み入れた。しかし、その入り口から、荀文若の昏い翳が兆していた。その翳は筮竹で占うまでも無い。
 起家官は八品だった。荀景倩はそれを粛々として受け入れた、彼の兄たちと同じように。閑散とした邸内が全てを物語っている。

「然したる仕事が有る訳で無し、左程身体も強くはないし、病気と称してあまり出仕していない。」

 それでも、冷たい視線に慣れるには幾分か時間が必要なのだろう。世誉は更に逆風を招く一方だった。

「馬鹿馬鹿しい、隠遁の道もあったのに。」
「……そうだね、父上が御存命だったら考えていたと思う。」
「嘘だよ。父上が生きていたなら、その背中を追いかけたに違いない。」

 それは今もだ。幻影を追い求め、夙夜に見据えているものは何なのか。
 荀奉倩は、父は冥誅に伏したのだと、何時しか割り切るようになっていた。荒廃した潁川の地で、荀氏の墓標と対面し続けた末の諦念だった。
 兄は、あまりにこの京洛の澱みに身を沈めてしまっていたのだ。

「……今日は温い雨だから嫌いだ。」

 ぽつりと荀景倩は呟いた。荀奉倩は聞こえなかった振りをする。
 凍えるような季節、何も知らず父との花見の約束を楽しみにしていたのだ。それを粉々に砕いたのが、初夏を知らせる生暖かい風だった。梅は疾うに散り去っていた。

 唯一度、破られた約束はあまりに残酷なものだったのだ。

「霙混じりの雨なら……そういえば、奉ちゃん、あの仔は潁川に置いて来たの?」

 若干の不安と不審の色を浮かべて、幼い頃の愛犬の話を聞きたがった。あまり発育の良くなかった自分たちより成長の早かった仔犬を見届けることなく、この洛陽に引き取られたのだ。拙い文字であった頃から度々届いた文に、仔犬のことを尋ねないことは無かった。
 それ程に気に掛けていたのだが、ある日を境に、荀奉倩はぱたりと、その愛犬について返信の中で言及することが無くなっていたのだ。

 冬に入る前、霙の中で震えていた仔犬を袖に隠して二人で連れて帰った、幼い遠い思い出。
 それは、荀景倩にとって、数少ない光差す記憶なのだろう。

「…………訊きたい?本当に?」

 それは酷く意味深な問いだった。
 普通の犬の寿命を考えたなら、荀景倩もどうなったかくらい想像はつく。老衰で穏やかに死んだのだろう。ただ、荀奉倩は極端に線の細さを見せることがある。その為に、その事実を受け入れることが出来ずに、手紙にも書いて寄越さなかったのだと、信じていた。―――そう、荀景倩も、その幸福な最期の日々を夢想し信じていたのだ。

 荀奉倩は、自虐的な笑みを浮かべた。

「いつも通りにね、散歩してたんだよ、一緒にさ。とは云っても、もう老いてたし走り回ることも無くて、俺より遅いくらいだったけど。俺が振り返り立ち止まり、のんびり荒廃した潁川で、ご先祖様の墓参りの帰りだったんだな。父上と同じように、いや、俺が持って行ったのは『孫子』じゃなくて『老子』だったけど。」

「その時、何か考え事をしていたんだ。何かなんてもう忘れた。些事かもしれないし、流行の思想かもしれないし、壮大に天下のことを憂いていた、ってのも有りかもね。」

「ふと気が付くと、傍に居なかったから、また、遅れたんだな、と思って振り返って待とうと思ったんだ。」



「何が起こっていたと思う?」

「何が、起こっていたと思う、景ちゃん。」



 赤い、紅い夕陽の下、繰り広げられた惨劇。

「喰っていたんだ。」

 何人ものあばらが浮いた人の形をした者たちが、石や棒を手にし何かを取り囲み殴打していた。鳴声も洩れては来なかった。

「生のまま、血塗れになりながら引き裂いて、喰っていたんだ。」

 夕陽は、あかく、



「………あ…。」

 荀景倩の顔から血の気が引いていく。指先が、それと分かるほどに震えている。
 この京洛に来てから流すまいとしていたであろう涙が容易く溢れ出した。荀奉倩はその涙が酷く透き通っているのに、綺麗だと思えない自分に微かな嫌悪感を感じながら、どこか冷め切った眼を捨てきることが出来ないことを、恥ずべきだとは考えなかった。

「どうして、どうして………。」
「どうして?」

「何故、そんな疑問を感じるの。何故、泣くの?俺にはさっぱり解らないよ。」
「どうして?私には奉ちゃんが何故、それほど冷静に話すことが出来るのかが解らない。」

 無意識に荀景倩は身を乗り出していた。荀奉倩の袖を握り締めていることにも気が付いていないかもしれない。

「とても、赤い血肉だったよ。とても白い、しろい骨だったよ。俺はその時、呆然として『老子』を取り落としたことに気が付かなかった。そして、あの仔の真っ白な骨が剥き出しになってくるのを食い入るように眺めていて、―――ああ、綺麗だな、と思ったんだ。」
「どうして!」
「景ちゃんは何も知らないんだよ。」
「そうだろうね、私は奉ちゃんがそれほど冷酷な人だと考えたことも無かったのだから!」
「本当に何も知らないんだね。」

 或いは幸福で、可哀想な景ちゃん。

 この城壁の内にある、箱庭のような世界で何が分かるのだろう。この温い雨が若葉を芽吹かせ、百花繚乱の一炊の夢の舞台を用意する。
 この柔らかな繭の中に居る限り、何も見えず、何も聞こえず、何も知ることもなく。

 一度、城外へ足を踏み出した時の、荒廃を知ることもなく。

 しろい、ほね。
 荀奉倩はあれほど美しいものは見たことがなかった。

 為すがままに、明日とも知れぬ命を繋ぐ為に撲殺し喰らう者を、静謐の中で見通しているかのように。生きるために喰らうのか、喰らうために生きるのか、死なぬために喰らうのか、喰らうために死なぬのか。そんな問いは無意味な世界が寂莫と広がっているのだ。

 嵐のように全てが終わった後、荀奉倩は道端に散らばる肉の一欠片も残さない骨を拾い集めた。そして、あの霙の日、袖に隠したように、骨を上着で包むと踵を返した。
 祖廟の傍らにひっそりと葬るために。新しい盛土には小さな白い石しか置くものはなかったが。

 幼子のように泣きじゃくる兄に、その事実を伝えるつもりはなかった。偽善ではなく、ただ、これは自分だけが胸に収めようと思った痛みだったからだ。純白ではない、兄も、流している涙だけは偽善ではないと信じたかった。それを確認することが怖かった。

「可哀想、かわいそうな………奉ちゃん。」

 掠れた声が耳に届き、顔を背けた。

「かわいそうな、」
「かわいそうな。」

 かわいそうな。



 ―――それは一体、どちらが?



午後の 五時
 きっかり 午後の五時だった
 少年が 白い敷布を運んできた
午後の 五時
 石灰の籠の 用意も終わっていた
午後の 五時
 あとは死を 死を待つだけだった
午後の 五時

 風が 綿をさらっていった
午後の 五時
 そして酸化物が ガラスとニッケルを撒いた
午後の 五時
 すでに鳩と豹が 闘っている
午後の 五時
 そして腿に 傷んだ角が突き刺さった
午後の 五時
 低音の 弦の音がひびき始めた
午後の 五時
 死が傷口に 卵を産みつけ終わった
午後の 五時
午後の 五時
 きっかり 午後の五時に

 寝台が 車付きの棺桶となった
午後の 五時
 骨と笛が その耳元で鳴っている
午後の 五時
 すでに闘牛が その額で啼いていた
午後の 五時
 部屋は 苦悶の虹できらめいていた
午後の 五時
 すでに遠くから 壊疽が忍び寄っている
午後の 五時
 百合の花が 緑の股の付け根で開いた
午後の 五時
 傷口が 太陽のように燃えていた
午後の 五時
 そして群集が 窓を叩き割っていた
午後の 五時
午後の 五時
 ああ恐ろしい 午後の五時よ!

五時だった 全ての時計が!
五時だった 午後の影でも!










 かなりひどい結末になってしまいました……ですが、双子と仔犬のおはなしを最初に書いたときから、この結末は決めていたので…。荀氏は好きですが、やっぱり彼らは貴族に繋がっていく系譜の始まりでもあるわけですから。命の軽重がいびつな六朝時代を考えると、まあ、いろいろと。
 作中引用した詩は、スペインのガルシア・ロルカ、『イグナシオ・サンチェス・メヒーアスを悼む歌』からです。(09.04.05)