をつづる。




 蜀とは奇妙な国だ。
 羊叔子は常々そう思っていた。
 京師から遠く離れた瘴癘の地。無論、彼は自らの足で立ったことはない。まるで童歌のように現実感の薄い世界だった。
 十数年前は度々軍旅を催し、この国を悩ませたと言うが、今は、不気味なほど静かなものである。
 とかく、彼の意識の端にしか、彼国は存在しなかった。



 本当に、昨日までは。



 まさに、青天の霹靂であった。
 中央の血腥い抗争を知らなかったわけではない。自身、その渦中にあるのだから。

 しかし、よもや義父が蜀へ走るなどは、予想の範囲外だった。



 妻の祖父に当たる人物が、他ならぬその蜀の出師によって落命している。 そして義父がその仇を討たんと、神明に誓っていたことを、近親の者は皆、知っている。
 この驚天の報は、妻を室に閉じこもらせるに充分だった。 おとなしい性だが、今回ばかりは髪を振り乱して、涙が止まることはない。
 一族の者は、次々に義父へ絶縁状を叩き付けていると言う。豈図らんや、致し方のないことだ、と羊叔子は思う。
 保身を計ることが悪いことだとは考えなかった。氏族を保つことは容易ではない。
 言うなれば、かほどまでに朝歌において、司馬氏の勢力の伸張は甚だしかった。



 義父は息苦しかったのだろう。或いは、衰退する一方の曹一族を見るのは忍びなかったのかもしれない。





 墨を磨る手を止め、迷走するばかりの思索をしばし中断する。
 席を立つと、すすり泣く声の籠る室の前に行き、中の妻を呼ぶ。

 三度、四度と辛抱強く名を呼び続けると、濡れた瞳を真っ赤に腫らして、ようやく、その顔を出した。





「文を、書かなければ。」


 羊叔子の厳しい表情に、妻はびくりと肩を震わせる。

「蜀という国は。」

 妻を宥めるように、その背を撫でた。

「温暖ではあるが、陽を見ることも少なく、晴れれば犬も驚くそうだ。この国とは随分と気候が違う。 水が合わないことだってある。ご壮健な義父上とはいえ、お身体が心配だ…そう思わないか。」

 背を撫でていた手を止め、部屋から出るよう優しく押してやる。

「だから、…ね。」

 はにかむような夫の様子に、漸く妻は涙を止めた。

「文を、書こう…ふたりで。」



 その武運を祈ることはできなくとも。
 魏からの、王族に連なる者の投降は凪いでいた時の終焉を意味するだろう。 険阻な谷間から現れる軍勢の中に、羊叔子ははっきりと義父の姿を見た。
 義父は、不倶戴天の敵となったのだ。

 しかし。
 彼は、その敵が五体満足に、健勝に日々を過ごしてほしいと願う気持を、矛盾しているとは思わなかった。

 どうか、どうかお元気で、義父上。













 羊叔子の奥方のお父さんは夏侯仲権です。羊家の婚姻関係もえらいことなってます。 司馬家も姻族ですし、蔡文姫まで親戚だったりします。
 それにしても羊叔子は気の合う人が敵国にしかいないのか…?(06.07.29)