ほこりう。




 許都の一角にある練兵所で激しい調錬が行なわれていた。
 夏侯元譲はまだ足らぬと、声を張り上げ、腰の剣を横薙ぎに抜いた。そして、その切先に眼をやりぎょっとする。此処にいるはずのない文人が斬られる寸前の場所に躯を晒していた。

「将軍の間合いは心得ておりますゆえ、ご安心を。」

 多少武芸を嗜んでおり、胆力もあることは知っている。しかし。

「……文官があまりこのような埃臭いところに来るのは関心せんな。」
「空が。」



「明るい空が見たくなりましたので。」



 劉玄徳がこの都に現われてから、皆何かがおかしくなっていた。夏侯元譲の見るところ、荀文若の変化は甚だしい。迷いがあるといってもよい。

 何の?
 この賢明で優雅な人間が何を迷う必要があるのか。



「空ならばどこでも見れよう。馬を走らせれば囲われた空ではない、広い空も見ることができる。」
「そうですね……全くその通りです。でも今は、この埃舞う青い空でなくてはならなかったのです。」

 振り切ろうとしているのは、何だ。
 それが理解できず、夏侯元譲は溜息をつくしかなかった。





「劉左将軍を殺さなければ――。」

 空を仰ぎ見たまま、瞳に偏執狂の色を宿しながら荀文若は呟く。



 あの男を殺さなければ。
 自分の中で漢と主公が紛れもなく重なり合っていた筈なのに、あの男はそれを幻想だと思い知らせる。解っている、主公にとって最早漢は天命尽きた国なのだ。

 では何故、この男の漢への忠節という言葉に、自ら築いてきたものを否定する感情が蠢くのか。劉玄徳の帝への忠節など唾棄に等しいものでしかない。劉氏の血を引くという、確かにそうかも知れない、漢の始まりもまた、抗争と詐術の世界から這い登ってきた始祖によって立ち上げられたものだ。

 解っている、これは自分への苛立ちなのだ。
 私は、私が一体誰の臣なのか、迷いを生じたことに対する怒りなのだ。





 ――蒼天スデニ死ス
 ――黄土マサニ起ツベシ





 せめて、時の始まりの頃の空を見たいと思ったのはただの郷愁だろうか。
 蒼天は――もう、起てぬのだろうか。譲りの時は近い。

 私はそれを、逍遥と受け入れることができるのだろうか……。



「忠誠の在り方とは難しいものです。」
「単純であってはならぬのか。」

 夏侯元譲には、螺旋の様に絡まる荀文若の思考が理解できなかった。何処の狭間にあるのか理解しながら、細い蔦に絡めとられているかのような荀文若の迷いが不思議でならなかった。

「単純であればこそ。」



 私は選択の時、主公の元には在れないかもしれない。
 それを気付かせた劉玄徳に憎しみを覚えていた。
 勝手な話だと自嘲しながら。





 空を只管に見上げる荀文若の目から色彩が抜け落ちていった。












 荀文若が漢の臣であると自覚したのは、劉玄徳の存在が大きいのではないかなという気がします。彼自身が果たして本当に劉氏の血を引いていたかどうかは関係なく、劉玄徳という異質な存在が入り込んだことで、曹孟徳軍団の中にある帝の存在の異質さも浮き上がったのではないかなあとか。(08.02.22)