とりゆくみち。




 白い光が二つ三つと目の前を過ぎ去った。
 斜め前に見えていた夜道を照らす火がゆっくりとその高度を下げてゆき、乾いた音を立てて地面に転がった。
 もう、二つほど白い光が流れると、けもののような複数の息遣いも途絶え、あとは元のとおりの無音となる。

 諸葛孔明が傍らを歩いていた人物に目を遣ると、その人物は無造作に黒く濡れた刀を衣服の袖で拭い、鞘に収めたところだった。 汚れた袖口はまるで気にも留めていなかった。暗く人通りも絶えているからという理由ではなく、白昼でもそうしたであろうというような態度だった。

「伯約。」

 姜伯約は刀を抜くために地面に棄てた火を拾い上げると、はい、と振り返った。
 火が赤く照らしているのは、感情が抜け落ちたような無表情の青年だった。誰もがまず目を奪われる鋭い意志を秘めた目付きだが、そこには何の色も浮かんでいない。
他の人間の前で、闊達と評される彼が日常見せることのないこの表情は、最近になって諸葛孔明と二人きりのときに限って折に触れ見られるようになった。 恐らくは、こちらが本来の姜伯約なのだろう。だとすればなんと哀れなことかと諸葛孔明はわずかに目を伏せた。

 この表情を知らないわけではない。
 錦馬超。
 辺境に棲まうということは、中原にいる人間には想像もできない荒廃があるのだろうか。

「相も変わらず見事なものだ。」
「恐れ入ります。」

 最小限の言葉だけを発すると、もうこの場に用はないとばかりに、目で止まっていた歩みを進めることを促す。暗がりの中に転がっているであろう遺体には 何の関心もないようだった。

「武の呼吸とはなんだね?」

 思わず口にしたことだった。諸葛孔明がこの問いを発した相手は二人しかいない。
 趙子竜はわずかに微笑んで首を左右に振っただけだった。
 馬幼常は様々な経典の類を引き合いに出して言葉を紡いだ。

 その問いがあまりに唐突だったために、姜伯約はその真意を測りかねるのかじっと諸葛孔明の目を覗き込むように見つめてきた。 僅かの間、その瞳に光が戻った。誰よりも強く鋭い光。天水で見出したのはその才以上に、その光だった。

「風。」

 少し長い沈黙のあとに、発せられたのは一言だけだった。

「掻き乱す者が即ち敵。」

 さすがに言葉が足りないと思ったのか、呟くように続けた。

「北の大地の風と、この蜀とは随分と異なろう。」
「丞相、私は。」

「私だけが何かと異なっているわけではありません。風然り。…北辺然り。」

 そうだったな。改めて諸葛孔明は己に思い至った。誰もが荒廃している。長い乱世に。荒れ果ててゆく大地に。
 誰しもが孤独だった。己も、この青年も。
 同じ道を歩きながら、誰もが何も共に持つことのない道。

 あるいは、己も姜伯約と同じような表情をしているのだろうか。







 自分に一つの道を指し示した人物が何を聞こうとしたのか、姜伯約は判っていた気がした。だが、それに答えるには自分の中に確かなものがなかったのだ。
 自分に熱があるのかないのか、それすらも知らない。憎悪しているのかもわからない。孝を貫けなかったことを悔やんでいるのかもわからない。

 目を閉じれば、未だ夢を見るのは振り払ってきた乾いた大地だった。
 老いた母がいる。穏やかな妻の笑顔。日々表情豊かになってゆく幼子の顔も鮮やかだった。

 国や大義など考えてもいなかった。ものごころついたときから火の手や人血の色は馴染んだものだった。父もその色に塗り込められ、 数多の人びとも自分の目の前から消えていったのだ、紅蓮の色の中へ。
 国など何の力もない。少なくとも天水にはなかった。許都などというものは知らない。ただ、自分と自分の周りの力が全てだった。 大切なものがあるというのなら、自分の手を鮮血に染めるしかなかった。

 そんな自分に夢を語ったのだ、この人は。

 笑いたいほどに哀れだと思った。漢の復興がなんだというのだ、漢があれば、紅蓮の現実もなかったというのだろうか。 漢があれば父も死ななかったのか、錦馬超が故郷を焦土に変えることもなかったのか。

 それでも。―それでも夢を見、大義を語るこの人は。この人が率いてきた軍は。
 美しいと。
 その幻のような力が美しいと思ったのだ。自分に道を見せてしまったのだ。

 その道が自分をいずれへと運んでゆくものなのか、それは判らない。ただ予感しているのは、その道は一人で往くのだろうと。 この国の丞相がそうであるように。この国の人びとがそうであるように。







ひとり、雨の中の昏い道を。










 孔明と姜維の距離感のようなもの。
 みなとの中ではあまり孔明と姜維って師弟関係というイメージではないです。護衛であり、側近ではあるのですが。 なんというかもう少し緊張感のある 関係といいますか。お互い見ている夢が違うことを判っていながら、どこかで幻想を抱いているというか…。 似たもの同士ではあるし、一番近い人間だと思ってはいるのですけど。(06.07.11)