さがり。




「ああっ!朝っぱらから五月蠅えよ!」
「寝ぼけるな、もう陽は西に傾き始めてる。いい加減にしろ。」

 乱暴に戸が叩かれたので、牀での安眠から渋々這い出して見ると、天敵の顔があった。

「俺の中ではまだ早朝なんでね。じゃあおやすみ。」

 起き抜けで櫛も通していない頭を振りつつ、いけしゃあしゃあと言ってのけたのは、切れ者と評判の軍師、郭奉孝である。
 別の意味でも切れていて、彼の中では世間と異なる時間が流れているらしい。 深更に起き出して執務を始めたかと思えば、昼中の軍議には出て来なかったりする。 それらは太陽に逆らっているとしか思えない彼自身の体内時計に従った結果だった。

「好き好んでお前を起こしにきたわけではないわあ!」

 よって、天帝の暦に従い、万事規律正しく生きている陳長文とまったく反りが合わない。

 二人とも、己の精神衛生上からも、可能な限りお互いに関わらないよう、常から細心の注意を払っている。
 (その本人達の苦労を知ってか知らずか、曹孟徳が二人を同じ部署に配置する辺り、最早新手の嫌がらせとしか思えない。)

 ところが。
 はいサヨウナラ、とばかりに盛大に散らかし、足の踏み場もない室に戻ろうとした郭奉孝の首根っこを引っ掴まえて、陳長文が問うた。

「令君の行方を知らぬか?」

 ………は?

 聞く相手が間違っているだろうよ、と呆れ返ってみれば、存外真剣な眼差しに晒された。 今にも首を締め上げる勢いである。

「それが人に物を尋ねる態度かよ…。」

 郭奉孝が目を細めて、相手の顰められた眉間を人差し指で弾くと、素直に手を離した。
 百語は説教が返ってくると思っていた郭奉孝は拍子抜けした。これはこれは確かに緊急であるらしい。
 だが、陳長文にとっては胃の痛む話だろうが、郭奉孝にとっては痛くも痒くもない。 寝起きの機嫌悪さも相俟って、普段通りからからと嗤うと、恰好のネタに飛びついた。

「厠じゃねーのぉ?あの人だって人間なんだしさぁ

 …………って、冗談に決まってるだろ!危ねえなおい!!」

 殺気立った陳長文が壁に立て掛けていた剣を振り下ろしたのを、郭奉孝は間一髪で躱した。 陳長文が舌打ちしたところを見ると、本気で殺るつもりだったらしい。 何やら背後に不気味な色をした妖気が見えるように感じたのは、強ち幻覚とは言えないかも知れない。

 おいおいおい、軽口も命懸けかよ…。

 すっかり目の覚めた郭奉孝は、気を取り直して、改めて口を開いた。

「あのさ、令君の居場所なんて、あっちかこっちしかないのではないか?」

 郭奉孝が「あっち」と指差したのは、尚書台であり、「こっち」と指差したのは、司空府である。

「それならお前に聞くまでもないだろう。」

 確かに。
 それにしても、この男、なんで俺の時だけこんなに態度がでかいのか。

 僅かに首を傾げて、他に思い当たる場所を挙げていったが、それらはほぼ陳長文の捜索範囲に収まっていたらしい。
 溜息を付き腕を組む陳長文に一瞬だけ同情を覚えたが、

「…なあ、令君って席外す時は近くの者に必ず言い置いているんだろ?」
「ああ、お前とは違うからな。」

 一瞬でも情けを感じた俺が間違っていたよ…と鼻の頭を掻きつつ郭奉孝は毒づいた。

「お前も過保護すぎないか。令君だって息抜きの一つや二つ…………………あ。」

 拙い、と口に手を当てた時には既に遅かった。
 心当たりがあるのか、吐け、とばかりに、陳長文が再び剣に手を掛けた。

 …だから、それが人にもの聞く態度かよ…。

 それは脅迫だろうと思ってはいても、彼とて命は惜しかった。

「本当に至急の用があるんだな?」

 付いて来い、と差し招いて郭奉孝は先立って歩き始めた。





 宮廷は広い。
 官吏とて、足を踏み入れたことのない場所はそこここにある。

 今、陳長文が案内されて来た場所は、彼が知る場所よりずっと奥まった一角だった。
 見たことのない柱を幾つも曲がると、小さな箱庭が眼前に現れた。

「「…………。」」

 自分が今、目にしているものが信じられないらしく、陳長文の回りの空気が凍り付いた。
 無理もない、と郭奉孝はそっぽを向いて、乱れたままの髪を掻き回した。

 頑丈に幹太く生長した樹の上に、彼の人はいた。
 それはそれは心地良さそうな寝息を立てながら、優美な長身を枝分かれした幹に預けている。 左脚がずり落ちぶらぶら揺れているのはご愛嬌か。

 信仰の域に達するほどに尊敬の眼差しで見ていた、仮にも君子と称される人物が。 近所の悪ガキと変わらないような恰好で居眠りを決め込んでいたのだから、たまらんだろうなあ。

 郭奉孝は、赤くなったり青くなったりする同僚の顔をまじまじと眺めた。

 何もそう生真面目に目ン玉まで引ん剥かなくても。そのうち泡も吹くんじゃねーか、こいつ。

「なあ、先生。」ひらひらと陳長文の目の前で手を振りながら、郭奉孝がぼやいた。
「早く起こしなよ。急ぎなんだろう。」

 はっと表情が動いた。やっと現実の世界に還ってきたようである。
 陳長文は、堅苦しげな咳払いを一つして腕を組み、暫し黙考すると。

「…………令君も確かに人間。近頃は主公の思い付きに振り回されておられたようであるし。 お疲れだったのだな…我々が至らぬばかりに…。」
「あー、もしもし?長文先生?」
「些細なことで、令君を煩わせるのも申し訳ないし…。 お目覚めになられたら、どこぞの阿呆と違って、尚書台の方へ戻って来られるだろうし、その時で良いか。」
「ちょっと待てぇぇえ!お前はそんな野暮用で人様の安眠を妨害したのか!!」
「黙れ。起こしてしまうではないか。」

 それはやっぱり後が怖いかもしれない。

「……おい。」
「判っている。他言はせぬ。」

 郭奉孝は我が身可愛さから、陳長文は令君の名誉の為、といささか意思が通じてはいないのだが、結果良ければ全て良し。 二人はそっとその場を離れた。



 足音も聞こえなくなった頃。樹上の令君が、唇の端を緩やかに上げたことを、二人は知らない。












 陳長文はとても真面目な人でしょうね。真面目な人は手加減を知りませんから郭奉孝に容赦がないんです。(06.06.29)