あおく、かいちのはて。




 冷たい空ね。



 そう感じるのは只の郷愁の故、と思うには都に遺してきた記憶は過酷なものばかりだった。

「何処まで向かうのかと追ってみれば、長安に還るのではなかったか。」

 馬を駆って蔡文姫を連れ出した彼女の主人が、乾いた草原を吹き渡る風に声を乗せてくる。

「長安も洛陽も、もう跡形もありませんわ。」





 この異種の民族の中を、更に不思議な言葉を操る者たちが通り過ぎた時、なんと言っただろうか。

 ―――確か、落葉帰根、だったかしら……。





「新しき都には駆けて往かぬのか。」

 お互いに目的は違えど、その都へ往く願いだけはあるのだが、叶わぬことだと諦めている。もう何百と投げつけあった問いだった。
 蔡文姫は、今日はこの不毛な問答を続けようという気にはなれなかった。

「この彼方には何がありますの。」

 蔡文姫は長城の方角へ馬首を向ける。これも、もう幾度めの問いなのだろうか。

「分からぬ!息絶ゆる時まで涯なく馬を走らせることができると謂うがな。」

 若き左賢王である劉豹はやっと蔡文姫に並んだ。





 事の始まりは戯れだったか睦言だったか。何れにしろ、漢人が謂うところの奴婢、賤妾に過ぎない女への、一滴にもならぬ憐憫の情だったか。

「漢人の女人は馬にも乗れぬのか。」
「必要ありませぬ。嫁いだ娘は家を守るのであって、外に出ることはないのですから。」
「狭いな。聳え立つ切り絶つ尾根も観ず、鳥獣の翔ける様も知らずお前は賦を詠い楽を奏でるのか。」
「常世の春も、聖君の政も幻想なればこそ美しいものでしょう。」

 口応えという訳でもなく、淡々と乱れ髪を整えながら、ささやかな反論をする。幻想的な琴を奏ではするが、彼女の中身はどこか褪めていた。

「蔡女と話していると埒が明かぬな。折角の境遇、終夜長嘆し渇れぬ泉のように泪を注いでも仕方あるまい。」

 劉豹の身勝手な物言いに、蔡文姫は非難の眼差しを仄かに見せる。

「気性の穏やかな『愛人』をやろう。乗りこなしてみせよ。ああ、その服は良くない。明日には届けさせよう?」



 劉豹は言葉通り、律儀に股の割れた胡服を朝餉の時間には届けさせた。陽が正中する頃には、彼自身が“気性の穏やかな愛人”の手綱を取って現れた。
 薄く白い雲が綾のように架った淡碧の空は高く、青年の入口に起ったばかりの虚名の王の稚気すら映える姿に変えさせていた。

 しかし、蔡文姫にとっては冗談ではない日々が始まったのも、また確かだった。
 幼児すら手足の如く操る家禽から幾度も振り落とされ、さんざめく嗤いの対象となるのだ。
 子供ならまだよい。匈奴の民の蔑みの笑みと溜飲を下げるように良い気味よという罵声。長安より行を共にした者達の哀れみに満ちた眼と裏腹の陰湿な囁き。



 ――成程、これが憤怒の情というわけね。



 皮で包むように隠匿していた心底の冷えた溶岩が沸騰し、噴き出す場を求めて体内を暴れまわる。それでも、蔡文姫は内面の修羅を面に僅かなりと示しもせず、痣と打ち身で眠れぬこと幾夜。

 嗤うことにも飽きた周りの人間が気付いた時には、鋭く澄んだ声を挙げ、左賢王の傍らで常に遠駆けに向かう蔡文姫の姿が在った。



 集落の眼の届く範囲では、少なくとも劉豹が主であり、蔡文姫は従の分を侵すことはない。
 だが、一度衆の視線がなくなれば、己の奔流の赴くまま、蔡文姫は自由に馬を走らせる。

「疾く、疾く。」

 そう声を掛ける数も、蔡文姫が多いのか、やはり劉豹なのか判らなくなっていた。





 当初こそ、漢土まで駆け抜けようと思い詰めもしたが、今では馬首を異なる方角へ巡らせていた。

「地の涯まで極めたいと願ったことはありませぬか。」
「ないな。」

 劉豹の返答は素っ気無いものだ。

「軛を喰い千切り、踏み荒らすべき大地を目の前にして、彼方に夢を馳る余地はない。」

 邪気のない口から放たれる数世代の憎悪は、劉豹の中で血肉となり何の疑いも持たないものだ。長き漢の御世に、公主を降嫁されるほどであった彼ら匈奴の地位は転落し、分裂抗争の果てに今やこの狭い地に逼塞していた。――彼らを脅威として築かれた筈の長城の内側に。

 蔡文姫は広大な大地を知りながら、為す術無く小さな世界に張り付き、殺戮と飢餓をさ迷う同胞と異郷の民を想い、目を閉じた。





 未だ視ぬ蒼穹の尽きたところには。

 生々しい臭いもない、静謐な風が流れているだろうか。





「帰ろうぞ、蔡女。」

 劉豹の肉厚ある掌が遠くから無邪気に振られた。


 今日も何処かで行われた殺戮によって流された人血が既に空と雲を染めぬいていた。











 蔡文姫はどうも男勝りなイメージが有るのですよ。いつも、ではなくて時々に見せる芯の強さとか。匈奴の地で泣き暮らすだけだったとはとても思えなくて、騎乗し自分を妾としている左賢王の隣に並べてみました。
 ほら唐代には男装して騎乗するのが流行ったらしいですから、先駆者ということで!(やりすぎ。)
 劉豹は、いわゆる南匈奴だったのですが、どうやら長城の内側に強制移住させられていたようなのですね。尚且つ、単于は人質として洛陽にいたようです。(うろ覚え。)三国時代は周辺民族にとって忍従の時代ですよね。ですがこの時代に次の五胡十六国時代の下地はあり、劉豹の嫡男、劉淵が西晋を中原から駆逐し国家を打ち立てるのですねー。皮肉です。
 劉淵は蔡文姫の息子ではないです、念のため。(07.03.08)