はるがない。




 春も近いというのに、前日から急に冷え込み、風花が舞った。都は一晩で銀世界へと変貌した。



 男が一人、水を多く含んだ雪を踏み締め、規則正しく足を運んでいた。
 鬢に僅かに白いものが混じった、体格のよい男だった。左目は布で覆われている。

 雪の降り積もる朝は、普段にも増して一層静かなものだが、とある一角にある邸宅は、まるで息を殺すかのように、 ひっそりと沈黙の帳を下ろしていた。 主であった人間の官位を思えば、随分と質素な佇まいだった。
 閉ざされ、訪問者を固く拒んだ門を見上げ、男はひとつ、息を吐いた。白い呼気は凍え、冴えた空気に溶け込んで行く。



 これから三年間、この家は諒闇に包まれるのか。



 男は微かな困惑がまだ胸の底に残っていたことを意外とは思わなかった。

 この京師において、今、噂が次々と流れている。意見の相違、決裂、病、賜死、…。
 良くも思いつくものだと、感心すらした。 武一辺倒の己には到底考えも及ばない筋書きが、泡沫の如く水面に浮かび上がっては消えていた。

 事実がどうであったかは、余人に窺うことは叶わない。



 何故だ。



 その問いも、雪にかき消されていくようだった。
 静謐な光景の中にいるというのに、彼の内は轟々と嵐が吹き荒れるかのように掻き乱されたままだった。 まだ誰もが若かった頃のそれぞれの面影が、止め処もなく溢れて消えた。





 しん、とした静寂を、甲高い犬の鳴き声が破った。
 野犬だろうか、と吸い寄せられるように足を向けた。

 邸宅の裏手に周ったところで、ころころと茶色の毛玉が雪に塗れて転がって来た。
 ひゃん、と一声鳴くとその仔犬はすぐに立ち上がり、短い尾を盛んに振り回しながら飼い主らしき小さな二つの影に向かって駆け戻る。

 二人の幼児も、仔犬と同じように真っ白な雪をかぶっていた。ちいさな小さな指先と艶やかな頬は寒さの為に紅に染まっている。 全く同じ顔をした子供たちだが、一方は大きな口を開けて笑い声を立て、もう一方はくすくすと控えめな笑顔を見せている。
 元気な方が精一杯手を広げて、駆け寄ってきた仔犬を抱きしめた。

 何処にでもある幼い子供のあどけない表情と仕草に、男は笑みを零した。
 彼らにとって世界は毎日が新鮮なものに溢れているのだろう。 降り積もった雪に目を輝かせ、朝餉もそこそこに飛び出してきたに違いない。

 ―それにしても、この寒空の下に出て来たにしては薄着に過ぎないか。 風邪など引かねば良いが―。

 その時、大人しげな方が大柄な闖入者に気が付いたのか、首を傾げ不思議そうな視線を向けてきた。 元気な方も、眉を顰め笑いを収めると、仔犬を抱き上げ片割れに寄り添うように立ち上がった。

 二人の服が粗末な麻で出来ており、裾が解れているのが漸く男の目に入った。 そして子供たちの顔貌が、かの貴人の面差しをよく映していることも。
 本来ならば、外に出ることも出来ない筈だが、物心もつかない幼児に喪礼を理解せよというのも酷なことだろう。 麻の服の上に一枚羽織らせたのは、こっそり出掛けようとした二人を見咎めた老家宰が身体を気遣ったのかもしれない。

「その格好で寒くないのか。」

 毛を逆立てた猫のように、警戒心を丸出しにした子供たちの様子に苦笑しながら、男は軽い足音を立てながら近付いた。 心なしか仔犬も敵意を剥き出しているようだ。

「さむくないもん。」

 元気な方が口を尖らせながら返事をした。が、大人しい方が小さくくしゃみをした。 二人とも鼻の頭も赤くなっており、ぐずぐず言っている。

「それは何だ?」

 腰を屈めて目線を合わせると、男は塀に沿って作られた幾つかの雪だるまを指差した。男の手に収まるような小さなものだった。 木や石、落ち葉を使って目鼻が形作られているが、ひとつひとつ表情が異なっていた。
 幼児たちはお互い顔を見合わせると、ぱっと顔を輝かせた。 大人しい方が駆け寄ってきて袖を引っ張ると、塀の傍まで連れて行く。

「これがははうえ。」

 元気な方が嬉しそうに一番端の雪だるまを指差した。 赤い木の実や、色付いた葉で綺麗に飾られている。

「これは大哥。」

 すると、二人揃って指で自分の眦を引っ張りあげる。雪だるまも顰め面だった。
 愛嬌ある仕草に、男は笑いを誘われた。 恐らくは家の跡取りとして、多忙な父に代わり、幼い二人の弟を躾けているのだろう。 名士の領袖として名に恥じぬように、厳しい家庭内教育が行なわれている筈だ。 ただ、兄の心弟知らず、叱られてばかりなのだということが眼に浮かぶようだった。

「おとなりが、そうあねうえ。」
「それでこれは二哥、あっちが三哥…。」
「それからあねうえ。」

 彼らなりの家族の捉え方がよく表われていた。 陰りのない明るい表情は、晩年の子ということもあって、豊かな愛情を受けている証左のようなものだった。



「このさいごのがちちうえ。」

 くるりと無邪気な瞳を向けてきた。一番大きな雪だるまの手の部分には葉が何枚か重なっていた。 書簡の類だろう。
 男は「そうか。」と眼を伏せ、忘れ形見である二人の頭を撫でた。

「ちちうえはね、おしごとにいって、それからひがしのうみを、みにいってくるって。」
「だからね、かいがらをね、おみやげにくださいって、おねがいしたの。」
「ざざぁって、きこえるんだって。」
「はるには、かえってこられるかなあ。」
「おはなみのやくそく、してるもんね。」

 とりとめのない子供たちの話を聞いていた男は愕然とした。 この幼児たちはまだ『死』を理解していなかった。 家族の雪だるまを作りながら、還らぬ父親の帰りを待っていたのだろう。
 それ以上に、『死』が何かも解らぬ末子たちにだけ、己の運命を暗示するかのような言葉を托した 貴人の心中は如何様であったのか、男はそれを思い暗澹とした。

 風が徐々に強くなり、空の昏い雲が厚みを増してきた。
 男は頭を振ると、盛大にくしゃみを始めた子供たちに早く邸に戻るよう促した。 裏口に入っていく二人と一匹を見送り、男は腰を漸く上げた。

 季節はずれの雪は、更に激しく吹き付ける。
 春は、あまりにも遠かった。















 二人の子供は、荀景倩と荀奉倩です。荀景倩は司馬氏の簒奪に荷担、晋での功臣となります。 荀奉倩は兄弟の中で唯一老荘思想にかぶれた愛妻家として有名です。 二人とも生年が不明なんですが、父親の記憶があやふやなくらい晩年の子供っぽい…。 双子だったら可愛いかも、とか妄想中。でも中国では双子って禁忌ですかもしかして。
 父親である荀文若の死とそれに伴う環境の変化が、二人の生き方に大きな影を落としているように思います…。(06.06.29)