るのゆめ。




「釣れますか?」
「いえ、昨日も今日もボウズですよ。…ずっとそうかも。」
「狙うは大魚、だと?」
「それが自分でもよくわからない。」
「では、何を求めての太公望気取りなのか、聞かせてもらえませんか、羊君。」



 川辺の頼りなげな草花を撫ぜるように、凪が吹いている。
 その人の声音も消えてしまいそうなのに、羊叔子の耳にははっきりと届いていた。

「ご覧のとおり――私は皆に期待されるような才幹はありません。すぐにこうやって逃げ出したくなる。」

 被った笠も上げず、座った姿勢も変える事なく、ぶらぶらと羊叔子はさっぱり手応えのない竿を揺らした。

 隣りに立っていた貴人――荀景倩がひとつ、平たい石を拾い上げると、手首を捻るように水面に放った。 その黒い石は、陽が白く照り返す川面を、波紋を描き滑るように、広くもない小川の対岸に辿り着いた。
 羊叔子は一つ口笛を吹くと「お見事ですな。」と心底感心したように言った。 こういった童の戯れとは無縁の人だと思い込んでいた所為もある。

「世人は君に対してもそう思っていますよ。羊叔子は君子の鑑たる人物だとね。」
「虚像に倣って生きよと?」
「そうは言いません。ですが、己で虚像を映した鏡を破る事もないでしょう。」
「公會を外してくれた事には感謝しています。貴方の一族ゆえ、大変言い辛いことですが、私は彼が嫌いだ。」
「知っていますよ。秘密を愛する彼の信条は、公正明大たりえたい貴方とは真っ向から反する。」
「そんな大袈裟なものではないです。佞ねる輩は嫌いだ。」

 相変わらず水面は小波もたてる事なく、絹のように流れている。

「やはり清水を好まれますか。」
「清濁合わせ飲めるほど、私も大きな度量はないですね。嗜好には忠実なもので。」
「清流には身を隠す所もないから、魚も居辛いでしょう。釣れませんね。」
「そうですねぇ、今日もボウズかな。私は稀少といえども、清流に棲む魚を愛でますよ。」

 会話の端々に感じる違和感に、羊叔子は首を傾げた。この清純な貴人は何が言いたいのだろうか。どこかに、「答えは判っている。」という己の中の声を聞きながら、訝しんだ。血の気の無い貴人の唇が、一瞬、蛇の舌のように紅潮したかのように見えた。




「蛟龍は清流に棲むとは限らないでしょう。」





 白髪の貴人が放った言葉は、儒者として長く野に居た奇人の心に左程の衝撃を与えなかった。釣人の、周囲に対する無関心さが鉄面皮のように羊叔子の顔には張り付いていた。



 ――これは白昼夢なのだ。



「ああ、ほら。」



 殆ど日に焼けていない白磁のような指が竿の先を示す。 白いというより、青い血管が透けていると言った方が正確かもしれない。



 ――戯れに二人が見た、幻の光景なのだ。



 水面に波紋が幾つも刻まれ、飛沫が上がり、竿が筋が入ったように張った。
 羊叔子は無言で竿を持つ手に力を込めた。足を踏ん張り、頃合を見て、竿を引き上げる。



 ぱちん、と弾くような音がした。




 ――まるで自分たちの隠れた願望がそれだと言うように。



 釣針に食い付いていたのは巨大な白龍だった。 川の流れから躍り上がり、その濡れて虹色に光る肢体を太陽の下に露わにし、尾を優雅に捻る。 金色の眸は、周りの光景への無関心さを露にしながら、ただ、己を釣上げた儚い生きものたちを品定めする目付きで、一睨みする。
 しかし、それも僅かな間で気をまた逸らせると、その体躯に対し、あまりに頼りなげな糸を食いちぎり、滑らかな躯を翻すと、再び水流に戻っていった。



 羊叔子は、糸を食い千切られた勢いで、反対側へ身を逸らし、黄色く照りつける太陽の下で震える竿を手に呆然と突っ立っていた。
 今のは夢か。ものを考えるには、頭の中に重石が入っているような奇妙な鈍さがあった。
 龍の出現は、瑞兆。しかし。いま自分の目の前に現れたあれは。

 たしかに、わたしを、みて。




 やめてくれ。

 わたしはそんなのぞみはない。



 時折訪れる、この奇妙な符号と前兆。今まさに、自分達が一つの一族を担ぎ上げようとしている、この時にまで、その不穏な予兆が己の前に――。いや。



 ならば、このひとは?


 父親が持っていたという『王佐の才』。
 その才幹を継いでいないと誰が証せるのか。
 これまで見せることがなかっただけで、その身の内に隔していたならば?
 その刃を砥ぎ続けていたならば?



 埒もない、しかし。




 ――帝王の気、そして王佐の才。
 ――司馬氏に王業が果たせるか?




 くにを、ひとつに、できるの、か?






「――…君。」




 ぱ、ち、ん、と、おと、が、




「…羊君。」

 その腕の細さからは想像もつかないほどの強い力で、右肩を掴まれ、羊叔子は我に返った。
 それでもまだ眼が泳いでいる様子の羊叔子を見て、荀景倩は握り締めた竿を取り敢えず取り上げようと、指を解き始めた。掌は冷たい汗に塗れ、堅く握り締められていた所為か、指は強張り、赤さを通り越し血の気を失って青白くなっていた。それを、寒い日、子供の手を擦ってやる様に温め血を通わせ、一本一本動かしてやる。

「――……は、ああ…。」

 やっと現実に戻ってきたのか、「大丈夫です。」と言いながら、震えながらも竿を手放した。無造作に落とされた竿は草叢に隠れた。

「申し訳ありません、無様な―。」
「逃した魚は大きいと言うところですが、それが、我々の身の丈に合っているということでしょう。」

 さらりと告げられた言葉に、羊叔子は凍りついた。
 夢ではなかったのか、それとも、あの夢を共有していたと言うのか。
 慌てて放り棄てた竿を掴み、その先を見たが、糸は切れておらず、釣り針から餌だけが盗られていた。
 普段の飄々ぶりとは異なり、狼狽した様子の年下の同僚を苦笑して見ていたが。



「この歳にもなると、白昼夢の囁きも、どこか醒めて観るようになってしまいますから。父と同じ才があると、昔から幾度も囁かれてはいましたが、私は臆病者だったのでしょうね。」



「……誰もが見る夢ですか、この夢は?」

 最早、荀景倩が羊叔子と同じ白昼夢の中に居たのを疑う余地は無かった。乱世の雄たれと、帝王たれとの、羊叔子にとっての悪夢。

「さあ…、私は聞いたことがありませんね。他の人と同じ夢を見るのも初めてですから。それで、どうなのです?」
「そんな、聞くまでもないでしょう。私は王にはならない。資質が全てではないことくらい判っていますし。それに。」

 羊叔子は釣り糸を巻き、魚篭を肩に背負った。中身は空だった。

「地の利、人の声、天の意が私に覇王たれと告げても、私はそれに逆らうことでしょう。」
「…そうですか。ならば、私も有りもしない『王佐の才』とやらを揮うことは、ないでしょうね。」
「司馬一族の為に揮っていたのではないですか。」
「私は観ていただけですよ。崩壊と創生と、そして、…。」

 漂白されたような姿が、僅かに歪んだように、羊叔子は感じた。
 見え過ぎる者は、すべてを口に出すこともできないのだろう。その堆積物が荀景倩を象り、彼の中で歪んでゆく。

 王の眼を持ってしまった自分と同じように。見える捩れをすべて矯正することができればどれほど楽か。 しかし、宮廷という人間の集合体の中に居る限り、それは無力だ。
 それらを飲み込み盲目となった上で、自分達は晋という新たな王朝に仕えようとしている。

「では、我々はどちらも卑怯者ということですね。」
「ええ。卑怯者は卑怯者らしく、――来るべき新王朝の為に、忠誠を尽すしかないでしょうね。 さあ、休暇は終わりですよ、羊君。礼儀の制定作業が滞っていますからね。」
「着替えてから――。」
「私は其の侭で結構ですよ。」

 まったく、涼風のように爽やかに言われては、羊叔子としても逃げ場を失ったようなものだった。
 ひとつ首を竦めると、竿を揺らしながら、荀景倩の後に従った。


 川はどこまでも穏やかに、陽光を反射しながら流れ続けていた。












 当初予定していた話からこれだけ脱線を繰り返した小話も珍しいです…呆然。 初めは釣をしている羊叔子の横で、荀景倩がぼけーっとしてるだけのお話だったんですけど。和み系を目指していたのに、 出来上がってみればやっぱり殺伐系ですか。
 荀景倩は妄想入ってますが(いつも通り…)、羊叔子の方はそういった話がありますね。先祖代々の墓を見た人が 「この家から王になるものが出る。」と言われて怒った羊叔子は墓を壊してしまう。そのために、息子が幼くして亡くなり、 家系が途絶えた、といったような。確かに晋王朝に替わってからの彼の粉骨砕身の働き振りからすれば、忠誠を疑われたと 憤激したんでしょうね。(06.09.07)