いふよう。




 二つに畳まれた麻布には、もとは白い小さな花が幾つも咲いていた二枝の当帰が挟まれている。
 手折られた花の命が一日と持つ筈もなく、天水の乾いた空気が辛うじて花の姿を留めさせたのか。砂と変わらぬ脆い姿と変り果てたとはいえ、幼い頃から開花の季節には根を掘り生薬としていたのだ、見間違えることはない。



『帰っておいで。』

『お待ちしております。』



 仕官してこの方、戦に征くたびに母は摘み取り乾燥させて取り置いた当帰を一枝持たせたのだ。
 そして、自分はいつも勁く脆い母の元へ帰ってきた。ただ、一度の例外を除いて。








 緩やかに締め付ける熱気と鈍色の太陽。
 陽炎が未だ沸き上がる晩夏の午過ぎ、姜伯約は当てもなく蜘蛛の糸のように張り巡らされた市へと迷い込んでいた。押し合うような人混みの中で、武人としては小柄な姜伯約の躯は、ともすれば埋もれ、陽炎の悪戯のように流された先で再び頭を出していた。

 脳髄が溶解するような、纏わり付く暑気に適応するのも、食や水に慣れるのも、北伐の撤退に巻き込まれ郷里と断絶した者達の中では姜伯約が最も早かった。元々、天水が終の棲家と考えてはいなかったのかもしれない。航路を定める暇も無く、流されるままに、彼は蜀に落ち着いたのだった。



 しかし、彼は、未だに成都に馴染めずにいた。


 泥濘の中に沈んでいるような、この息苦しさは何なのか。
 曖昧さを許せず、答を求めるように時間を見つけては成都を彷徨っていた。


 暦すら頑なに漢の御世の儘に。
 黄河を逆巻かせるような挙に出る国の首府は、場違いなほどに華やかで、険阻な山嶺を越えた先に茫々と拡がる黄土の彼方を再び手に治めようとする悲愴さは路傍の石の欠片ほどもない。成程、前代の王朝の復興ではなく、血脈を継いだだけだと言うなら、この噎せるような白粉も、方々で吐き出される酒精の名残も間違ってはいない。


 軽い眩暈は、慣れない人波の為だろうか。
 姜伯約は頭を落とし、知らず、右の拳で当帰を挟んだ麻布を懐から探ろうとする。寄る辺なく、冷たい辺塞の風を思った。



『帰っておいで。』

 ―――そうだ、帰ろうか。清涼な天を戴くは幻だったと。
 ―――母上、ああ母上、それでも私をお待ちになっておられますか。


『お待ちしております。』

 ―――嗚呼、この冷血漢を未だ待っているのか。そうなのか。







「おや、姜君。如何なされましたかな。」

 俯いていた姜伯約の前に、暴発するような人々の波間を滑るように飄と費文偉が現われた。
 身を包む不穏な空気に眉を顰め、肩を抑えるように抱え込むと、費文偉は有無を言わさず彼の散策の供とした。





 ほんのり頬を染めたような八重の花が咲き乱れている一角に小さな涼亭がある。
 そこに酷く憔悴した態の姜伯約を座らせると、費文偉は従者に冷水を持ってくるように言付けた。



 数日前の深更、姜伯約の官舎に訪れた者がいることは先刻承知。俸禄を与えているとはいえ、降人への監視を即座に解くほど諸葛孔明も甘くはなかった。無論、本人達に監視の事実を知らせてはいないが、姜伯約を含め敏い者は既に気が付いている。
 尤も、姜伯約は市に出入りしては、監視に当る間者の技量を試していた節がないでもない。凍えた硬質な黒い瞳は、時に児戯を起こし、気が向けば撒くこともあったらしい。

 ―――行き場を失い、降った国を尚も測るか。胆がある。が、好奇の強さも良し悪しか。

 更なる監視を、ということだった。そして、訪問者以降の姜伯約には余裕が失われ、焦燥の中で市に繰り出す回数だけが増えていった。
 費文偉が現われたのは偶然ではない。




 渡された陶磁の杯から、姜伯約は冷水を一気に飲み干した。口腔内の容積が足りずに一筋、溢れた水が流れ落ちたが、無造作に左手で拭き取った。
 くぐもった声で一言礼を言うと、立ち去ろうとする姜伯約の袖を辛うじて費文偉は引き止めた。

「まあ姜君、暑気にやられたのでしょう。直ぐに熱風に躯を晒すのは宜しくない。暫く涼んで行かれたが良いでしょう、此処は滅多と人が立ち入りませんよ。」





「彼の花は。」

 静影での休息と草いきれが、漸く姜伯約を落ち着かせたのか、浅緑の葉に絹の裳裾を幾重にも包んだ薄紅の花に眼を遣った。

「今朝方、よく似た白い花を見ましたが。」
「ああ、あれは酔芙蓉ですよ。貴君の見た花も同じものです、この成都には沢山咲いていますから。お気に召したなら一株失敬しては如何かな。」



「かの木芙蓉は、酒に酔うのですよ。」


「朝、目覚めの刻は穢れを知らない清楚な面をしていますが、午を過ぎれば酒を知り、夕刻には艶やかな紅緋に染まるのですよ。爛熟した妓女のようにね。」





「私は辺境の出ですから、木芙蓉とは一重の雪白のものしか知りません。」



「市場では溢れる産物を商い、高価だという蜀錦を纏う者も事欠かない。宵口には見上げるような妓楼から色彩豊かな明かりが漏れ、楽が鳴り、嬌声が響く。そんな世界も知りません。」




「貴公は今、爛熟だと言われましたね。熟し切った実は……崩れ腐り落ちるしかない。酔芙蓉の如く、この成都も酔っているのではないですか。」



「ほう。では将軍は、この京洛が狂騒していると思われるか。」





「いえ……。私は閉ざされたまま忘れることが恐ろしいだけです。」

「天水では、男は蛮夷との戦に出たまま帰らず、女子供が耕す、それだけだった。妓楼などないから、耕作の傍ら躯をひさいでいる女も多かった。」





「成都は、天府です。総てが満たされている。先帝が入城するまで、繭に包まれ夢を見る蚕のような都だったと聞き及んでおります。酔芙蓉の繊細な美しさに囚われる人々は、再び蚕の夢だけを望んでいるのではないでしょうか。」





「成都は、成都だけの繁栄を―――、」










 ぱちん。



「おや、失礼。」

 費文偉は、姜伯約の眼前で両手を勢いよく合わせていた。

「木陰はどうにも蚊が多くて敵いませんね。」
「あ……、いや、こちらこそ失礼致しました。」

 危く失言するところを、費文偉が救ったという事だと姜伯約は解釈した。

「ああ、御覧なさい。空と酔芙蓉と、はたしてどちらがより紅いでしょうな。」



 空の半ばは青藍となり、西天が朱に燃えるようだった。酔芙蓉も、姜伯約がこれまで目にした中で最も鮮やかな紅へと変貌していた。

「全く、酔芙蓉の如く、再び夜明けには蘇るように清冽さを取り戻せるなら……ね。」




 肩を竦ませながら、それでは先に失礼するよ、と費文偉は片手を挙げてさっさと涼亭から降りていった。
 湿度を含んだ風は少なくとも、日中の不快な熱気だけは失われたようだった。姜伯約は瞼の裏に当帰の幼い白さを映しながら、暫く温い風を浴びていた。








 数日後、姜伯約は再び市にいた。
 生薬を商う一角で、自身が常から服用しているものと合わせて、遠志を一掴み贖った。

 折角、母と妻は花を押したものを届けてくれたが、生憎と遠志の花の季節でもなければ、この西南の地では元来育たないもの。西北の冷たさを映したような青さを目にする事があったとして、それは何時の事になるのか。



『帰っておいで。』

『お待ちしております。』



 故郷の天水にすら根を下ろせなかった自分だ、結局は何処かで賭に出るしかなかったのだ。儚い辺境の幸を捨てても。
 身勝手な己をお許し下さい。小さな誓いも守れなかった己を許してくれ。

 雪白の幸福な過去だけは、貴女達の元へ置いていくから。





 私は酔いはしない。
 酔芙蓉に溺れまい。

 せめて遠志が母と妻の心を慰めるよう。



『幻のような言葉に根を張ろうとすることをお笑い下さい。』


 それすら、爛熟した果実に魅入られたのだと。遂に我に返ることもなく彼は酔い続ける。












 植物ネタの合わせ技です。当帰は貧血、遠志はストレスに効くそうです。あれ、どちらも心臓関係という話もあったような。漢方薬の神秘。(嘘です調べ方が足りないだけ。)開花期の根を収穫し生薬とするそうです。写真見ただけでは両方ともマンド●ゴラと区別が付きませんでした…。
 酔芙蓉は杜甫草堂などにいっぱい咲いています。楊貴妃に例えられたとか。
 天水がそこまで貧しかったかどうかは不明です…でも羌族との争いが絶えなかったならそれなりに荒廃しているかなあと。馬孟起も来襲していますし…。(強引。)
 それにしても珍しく姜伯約が沢山喋ってます。(07.07.07)