この城壁から何度底の見えない峡谷を見下ろしたのか、それでも飽くことなく姜伯約は足を外に放り出すように座していた。
刃が無数に突き出されるような寒風が耳元で甲高い音を立てながら、姜伯約の老境に入り始めた躯を痛めつけていく。
毎日が弛緩したように過ぎていく。ただ兵の調練に明け暮れ、魏に攻め入る幻想の日時を数えて。
そして老いていく。
後悔しているのか、という自問を数えきれないほどしたが、何故か導き出される答えは否だった。天水に残ったとして、そこにあるのは活動的な日々だったかもしれないが。歩哨に立ち、地平の彼方、異族の敵影に目を凝らし、時には槍を振り血を浴びる。
辺境においてはあまりに日常的な―――それも弛緩なのかもしれない。飽くことなく繰り返される闘争、否、生存競争というべきか。あの小さな辺境で羌族と只管に命の削り合いを続けるのだ、前進も進歩もなく…望みも無く。
ぼんやりと脳裏に蘇ったのは初陣で斬った羌族の騎兵だった。それも直ぐに霞の向こう側に消えていった。
顔も歳の頃も知らず、ただ大きな翳を斬った気がする。自分の骨の浮き出た手の甲が目に入ると、それも昔語りの類かと感慨もなく見つめた。
風伯によっても吹き払われず渓谷の底に澱んだ霧は、自分を何処かへ攫って行きそうだ、そんな埒もない考えが閃いたとき、背後から強く己を揺さぶる者がいた。
「如何された、夏侯将軍。」
真っ先に脳裏を過ぎったのが魏の征西だったのは、最前線に立つ身として仕方のないことだった。だが返ってきたのはまるで夢の続きのような答えだった。
「……将軍が我々とは異なる世界を見ているようでしたので。」
「ははっ。一炊の夢でも視ていたかもしれん。」
「取り敢えず、其処から降りて下さらんか。私の心の臓に宜しくない。」
「地の底も見えんぞ。成程、降りれば気分良くなれそうだ。」
「そちらではなく!」
珍しく軽口を叩きたい、という気分は高揚したものからではなく、奇妙な浮遊感からだった。
誰かが己を呼んだような声が聞こえたような気がして、振り返り、夏侯仲権の名を呼ぼうとしたが、急に熱した石を喉に押し込められたように声が出ない。
白い霞が目の端にかかってきた、と思う間に、白は暗色へと変化し、漆黒に塗り潰された。
『寝てはならぬ。』
「お目覚めになりましたか。」
寝室の隅に凭れていた張伯恭が大儀そうに声を掛けてきた。
額に手をやると冷水に浸された布に触れた。躯が普段と異なる熱気を内側で篭らせている不快感に次いで、やっと自分が倒れたことを理解した。
「如何ほどの間を?」
「某には分かりかねます。仲権殿に聞いたが良いでしょう。可哀想に、血相を変えて将軍を抱えて飛込んで来ましたよ。」
「…服の端が破れている。」
「奈落に呼ばれた将軍を此方に引き留めた、仲権殿の苦心が偲ばれますな。」
張伯恭らしくもない、のらりくらりとした答え方だった。この男も厳しく戒めた何かが瓦解し、弛緩し始めているのだろうか。
これまでなら気に留めたことのない鬢の灰色の薄さや、全身から立ち上る草臥れに、姜伯約は苛立った。
「伯恭も随分と疲れているようだ。」
礼を失した姜伯約の嘲った口調に、張伯恭は何の反応も示さず、黙したまま、牀から動くことの出来ぬ自身の上将を凝視した。
――錯乱した病人への憐れみと。
――お前は誰だ?と問うような。懐疑に満ちた視線。
その視線だけが拡がり、瞳孔に飲み込まれたかと思うと、一転して空はどこまでも青く、草原は遥かに碧く。
『誰も寝てはならぬ。』
蠢く人の集団と、軍馬たちだけがどす黒く染まっていった。
―――だれかだと!私は姜維、字は……。
何時の小競り合いだったのか。その羌族の将は、父を射抜いたという将は、何故自分が乳臭さも抜けきっておらぬ若武者の槍の餌食になったのか、理解できないかのような目をして。
誰に殺されたのか、遂に知ることもなく彼らの言うテングリ(=天)へと逝ってしまった。
いや、彼は、本当は誰が自分を討ち取ったのかも関心がなかったのだろうか。だとしたら。
―――私の志とは何だったのだ。ただ一人の、このような男を死に至らしめるだけのものだったのか。
『眠ってはならぬ。』
「衞将軍!」
乱暴に躯を揺すられ、はっと目を開いたが、暫くは揺れた水面のように視界の人物が誰なのか解らなかった。
「大丈夫ですか、大変なうなされようでしたが。」
「…張将軍。」
「夏侯将軍から聞きましたぞ、昨日から様子がおかしいのに風雨の最中、早駆けに出ておったとか。ご自身の立場を何と心得ておられるのか。」
確かに張伯恭だ。
虎のような眦を怒らせながら、幼子に諭すように諌言を浴びせるのだ。
己と同じ歳のくせに、常に兄の立場にあるかのように。
「夢魔が。」
渇きを覚えるほどに諌めても、聞き流したかのような姜伯約の掠れた声に、後から入室してきた夏侯仲権は張伯恭に同情した。
「いや、何でもない。―――寝直す。」
仁王立ちになった張伯恭を見上げることさえ辛いほどの頭痛と悪寒を思い出すと、姜伯約は牀の横に立つ二人には目も呉れず、再び掛布の中に潜り込んでしまった。五つ数える暇も無く、か細い寝息を立て始める。
苦笑いを溢しながら、夏侯仲権は姜伯約の足許に丸められた毛布を掛け直し、改めて冷水で浸した布を額に添えた。
「常からあれだけ大人しい方であれば良いのだがな。」
脱力感と不安感を綯い交ぜにしたような溜息を吐きながら、姜伯約とは異なる苛烈さで鳴らしている虎の眼の武官は先に階段を降りた。そして、僅かな躊躇を見せた後、振り返り夏侯仲権に問うた。
「魏将とは皆ああいうものなのか。気を悪くされたなら申し訳ないが。」
「お気遣い下さいますな。……魏国では、心当たりはありません…最も、将軍の烈しさという点のみに於いてですが。」
微妙な返答だ。時代は変わっていた。夏侯仲権の目から見れば、司馬一族の傍らにある人材たちは異形の者でしかない。
彼らについて語る言葉を、夏侯仲権は知らない。だが今やその未知の者たちが“魏”だった。
姜伯約が劫火であれば、司馬一族は奔流なのかもしれない。火は水に勝つことは……。
「夏侯将軍?」
『ねむれ。』『ねてはならぬ。』
自分は、暴の権化によって焼き払われたという洛陽の姿を知らない。三月燃え盛ったという壮大な宮殿を知らない。
その火は、誰にも鎮めることが出来なかった。自身が荒れ狂う為の餌を貪り尽くすまで、土も水も、手を拱くばかりだった。
亡父が知っていた、総てを塵埃に帰す火炎を夏侯仲権は想像できなかった。
知っているのは、水流に押し流され、僅かに湿り気のない場所で狭い周囲を照らすことしか出来ない哀れな姿だけだった。石や土の下へと埋められていく敗残者の姿だった。
この広大な大地に、火の海が燃え盛る場所はもう無いのかも知れない。
姜伯約は、その身を焔とする時も場も、失って久しいのではないだろうか。
『おやすみなさい、と。』
「張将軍、内部で燻り続けていく焔は何時までその光を失わずに居られるでしょうか。」
「……焔が自然に消えることはない。僅かでも蓋が開けばその隙間から溢れ出し、封じていた箱ごと燃やし尽くすでしょうな。」
蓋を、魏からの降将が抉じ開けたことを二人は間もなく知ることになる。
『しかし、もうだれもねむれぬのだ。』
連年の遠征の末。
蜀はその歴史を閉じる。
断末魔の呻きのような。
煉獄の後夜祭を残して。
了
絶対に風邪なんか引かなさげ人が風邪引いてますね、今回。
姜伯約と夏侯仲権と張伯恭が同じ場所に居ることがありえるのかということは見逃していただけると。
ついでに羌族はテングリ信仰持っていないはずということも見逃していただけると。(本来は蒙古族ですよね…たしか…。)(07.01.05)