がふる。




 沙、ざ、ざ。


 船が群がるように、江夏へと舳先を向けていた。
 雨が降り注ぐが如く、矢箭が飛び交う。河の流れが荒れているのか、飛沫が絶える事なく身に降り注いだ。

 凌公績は常の如く先鋒として、陣を突き崩し、今まさに、仇敵の首に手を掛けようとしていた。
 振り返れば子飼いの郎党たちの顔がひとつひとつ、はっきりと見えた。誰もこの猛追に脱落していない。
 その忠勤振りに満足するように、彼は僅かに頬を緩めた。
 浅黒く日に焼けた顔は、その歳に似ず深い皺を幾つも刻んでいる。 ここ数日、波のように猛攻を重ね、ほとんど眠っていない眼は赤く充血し、 獲物を目前にした肉食獣のように爛々とぎらつかせていた。

 ――あと、もう少し。





 今度の奴等はしつこい、と甘興覇は舌打ちした。
 蛇のように執拗に、江夏を狙い続ける孫氏とその麾下の侵攻は回を重ねるごとに激しさを増していた。

 ――おやじさんもよく持ち堪えてはいるんだが。

 如何せん、水戦の手管は相手が一枚も二枚も上手だった。
 毎回攻め込まれては、撤退を繰り返している。これまでこの地を保って来たのも、僥倖に頼る部分が大きい。


 あめがふる。
 沙、ざ、ざ。


 甘興覇の顔に天から水滴が落ちて来た。 元々怪しい雲行きだったが、じきに黒い雲が重く垂れ込め雨脚は強まり、全身が濡れそぼった。

 ――もし、俺に、あと幾許かの手持ちの兵があれば。
 ――もし、俺に、指揮を委ねてくれたなら。

 栓もない、と頭の中から空想を追い払った。


「なにやってんだ!」

 傍らで敵を射貫けぬ弓兵を怒鳴りつけた。 蓄えも豊富ではないし、矢弾にも限りがある。

「下手くそ!寄越せ!」

 矢の束を奪い、見本を見せるように、次々に矢を放つ。
その見事な弓技に、味方の陣営から歓声が上がり、敵の寄せ手に怯みが走る。

 ――なんだ、まだガキじゃねえか。

 先程、矢束を奪った相手を顧みて、少し大きめの甲冑の上にのった幼い顔に気がついた。 甘興覇の顔を尊敬の眼差しで嬉しげに見ている。

 ――ガキを殿の兵に混ぜるなよ…。

 正直邪魔なんだがな、と嘆きながら、その頭をぐしゃぐしゃと撫でてやったら、殊の外喜ばれた。 その困ったような甘興覇の様子を見て、彼の乱暴な中の何気無い労わり方を知っている古参の子飼が苦笑した。

 弓矢の妙技で多少意気が上がったとはいえ、敗残の兵には変わりはない。 僅かでも余力を残しているうちに、引き上げるべきだった。





 あめがふる。
 沙、ざ、ざ。


 勢いを増した雨によって、視界は一気に悪化した。 暗く霞んだ先を目を凝らして見るが、篝火すら輪郭を失い、蜃気楼のように水面を滑っていた。

 ――しぶとい。

 敵の殿軍の粘りは厄介だった。
 弓を得手とする者がいたようだが、そんなものが一人二人居ようが、数で押し包めば的も絞れまい。 最期の足掻きというところだが、最前線の動きが鈍ったのは確かに痛かった。
 あと一息で飲み込めたものを。

 だがここで後続を待って進軍の勢いを殺すつもりは毛頭ない。
 獲物を食い千切るまで、獣は走ることを止めないのと同様、凌公績は、功名の餌を前にして他人に譲る気は端からない。

 ――やるな、あの若造。

 弓の腕は兎も角、撤兵の指揮は目を見張るものがあった。
 そういえば、海賊上がりがいると聞いたことがある。不遇を囲っているというが、やるべきことは手を抜かぬらしい。

 ――彼奴が賊上がりなら、逃げ足の早さも得心がいくというものだ。

 配下に命じ、船速を上げるため、無用の荷を捨てさせた。
 痛みすら感じるほどの雨の勢いは、河の水を濁らせ、流れをさながら龍のように変貌させつつあった。





 あめがふる。


「ちいぃっ!」

 風雨の合間にちらちらと見える敵船の篝が急に巨大になってきた。 相手が勝負処と読んだということだろう。
 自分ならどうする。そう考えた時には敵が目前に迫っていた。

「船を何隻か横倒しにして、河口を塞げ!船夫と兵は他船に飛び移れ!」

 甘興覇は歯軋りする間もなかった。 最後尾の船に乗っていた彼は、真っ先に敵船から飛び乗ってきた相手を斬り伏せねばならなかった。
 真っ暗な空に血飛沫が散るが、それも豪雨にあっという間に流され、濁流の黄土色に飲み込まれて行く。 黒い人影が入り乱れ、乱戦になった。
 相手は立往生させたこちらの船に次々己の船をぶつけ、飛び移る。 そしてそれを足掛かりに逃げようとする他の船に飛び移り始めた。

「馬鹿野郎、余計なモン捨てて船足を軽くしろ!乗り込まれるぞ!」

 甘興覇は言外に最後尾を見捨てろ、と言っているのだが決断に欠いているのか、味方の船はもたもたとして 混乱する戦場に拍車を掛けていた。 甘興覇の声もまた、激しくなる雨音と怒号の中に掻き消されていた。
 自分達が最後の防波堤であることは確かだった。もし、ここを突破されたなら、江夏まで遮るものは何もない。
 ここで固まるより、味方を分散させて敵の力を削っていくのが最適だと、甘興覇は思っていたが、現実は、 殿軍のほぼ全てがここに集まって動けずにいる。

 ――くそ、居るだけで何もしねぇなら邪魔だから下がってくれ―。

 そう、後ろを振り返って叫ぼうとした時、右胸の下から急に力が失われた。
 無意識に持っていった手には、粘着質の赤黒い血が一面に塗られていた。
 斬られた、と認識すると共に、凄まじい激痛が起きる。

 ――誰だ。…誰だ誰だ、だれだだれだだれだ――!

 膝を付き、剣で辛うじて上体を支えた。朦朧とする意識も激痛と、誰だ、という疑問で失うことは無かった。
 霞む視界に精悍な一人の男が立った。
 手にした戟は甘興覇の血がこびり付いているが、叩きつける雨水はそれも元の鈍い輝きに戻そうとしていた。

「賊は、それ以下にはなれん。それ以上にもなれん。」

 利いた風な口を叩くな、という言葉は喉からせり上がってきた血塊に押し留められた。
 その時、わああああ…と僅かに声変わりのしていない声が聞こえてきた。同時に、賊時代からの配下が甘興覇の躯を担ぎ上げた。

「遅くなりました、船団の指揮権をやっと掌握しました。離脱します。あと敵に一撃加えれたら良いのですが。」

 配下の言は、甘興覇が望んでいた撤退方法だった。無事な船に移ると、直ぐに応急処置が取られる。 多量の出血でさすがに意識が混濁し始めた甘興覇の目に、それは飛び込んできた。





 あめが、ふ、る。


 その男が、甘興覇の次に戟の餌食としたのは、脇から跳び込んできた弓の下手なあの子供だった。 手には、甲冑と同じく、身の丈に合っていない剣があった。
 何が起こったのかも解らなかっただろう。 真っ二つにされた躯が逆さまに船から落ちていく様が、甘興覇の目には酷くゆっくりとした映像に見えた。 悪天候で、殆ど先も見えないというのに、その子供の大きく見開かれた目が、はっきりと。
 はっきりと、見えた、と思う間に甘興覇に包帯を巻き船内へ連れて行こうとした人間を突き飛ばし、船尾へと奔った。

「弓だ…弓と矢を貸せ…!」





 沙、ざ、ざ。


「厄介な置き土産を残してくれたもんだな。」

 凌公績が顎を撫でた。河口を完全に防がれてしまった。だが、追跡をここで止める気は無かった。

「奴らも船速をそれ程上げられんだろう。ここに置いて行った船の分だけ人間を積んだ訳だし、怪我人も多いはずだ。」

 霧の向こうの船団を掠め見るように、「置き土産」の先端に立つ。先程、子供を斬ったところだった。
 まだ字を与えていない己の息子より小さく見えた。これまで、女子供を手に掛けたことがないかと云われれば沈黙するしかない。 それが、兵というものだった。だからといって、後味の悪さが無くなるわけではない。
 これが父親であるということなのかもしれんな、と自嘲し、その内省を振り払う。

「兎に角、急いでこの瓦礫を除けよう。陸の足がないのがこういう時は痛い…。」





 あ、め、が。


 耳鳴りだと、凌公績は思った。しかし、己の胸には一本の矢が突き立っていた。
 その意味することを悟った時には、第二、第三と幾つもの矢が、凌公績の躯に吸い込まれていった。

 ――どこから?…あの、遥か彼方の、船からだと―?





 あ、め、が、ふ、る。


「は、はははっ。」

 異常に気が付いた配下の者が駆け寄ってこようとしているが、凌公績は自分の天命がそこまで持たないことを、はっきりと悟った。

 空を仰ぎ見て、両腕を広げた―何かを抱き止めようとするように。 濁った雨が僅かに開いた口に落ちてきたが、それは甘露のように美味だと感じた。 重く垂れ込めた雲は、彼の目の前だけ切れ目を見せ、そこから無窮の蒼穹が拡がっていった。 凌公績は、満足気に、瞳を自ら閉じた。

 最期に瞼に浮かんだのは、結局、字を与えてやれなかった生真面目な一人息子のことだった。

 ――お前はどうする、父と同じ途を往くか…?





 沙、ざ、ざ。
 あめがふる。

 あ、め、が、 ふ、る。














 親子で同じ名は忌まれますが、同じ字は駄目なのでしょうか。
 はい、このお話の凌公績は父親の方です。だって字がないんだもん…。 息子が同じ字にしたのは、絶対に仇を討つ、という決意表明ということで見逃してください。
 甘興覇のこの傷痕は一生残るくらい深かった、という設定です。 船の知識がないし戦略の知識もないし…いい加減ですみません。(06.08.06)